日本の環境庁行政の総括・序説−韓国との対比のために

一 はじめに

日本において一九七一年に誕生した環境庁は、二〇〇一年、中央省庁の統廃合により、その姿を消した。新たに発足した環境省は、環境庁が担っていた事務に加え、厚生省(現・厚生労働省)が担っていた廃棄物行政事務および総理府が担っていた動物管理事務をも担うことになった。

一方、韓国においては一九七七年に環境保全法が制定され、一九八〇年に環境庁(保健社会部の外局)が設立、それが一九九〇年に国務大臣を長に持つ環境処(日本の環境庁に相当)に昇格。さらに一九九四年には環境部(日本でいえば環境省に対応)に昇格した。所掌範囲としては、当初から廃棄物行政は含まれていたが、自然保護・自然公園行政は日本の環境庁と異なり、一九九八年になって建設省から環境部に所管換えされた。

日本と韓国の環境行政の発展過程について李進、原嶋洋平らは、「日本と韓国の環境政策の発展過程の比較分析」(環境科学会誌 第八巻二号 一九九五年 p181-192)のなかで、「共通の性質を有する事象を概ね同じ順序で経験してきて、その時間差は経済指標による推移の時間差と対応している」という総括をしているが、今日、環境行政に関して言えば、日本の環境省発足(昇格)により、行政組織も、法制度も、日韓両国はほとんど相同のものとなったことになる。

日本の環境庁は発足時、四局一部体制で成り立っていた。即ち、企画調整局、保健環境部、自然保護局、大気保全局、水質保全局である。のち、九十年代に入り地球環境部が生まれ、四局二部体制が確立した。

筆者は三十年近くさまざまな環境行政の場に行政官として従事してきた経験を持っている。本研究は、そうした経験を踏まえ、日本環境庁行政のうち、まず相対的に独立していた自然保護局の自然保護行政(自然保護局行政と呼ぶ)、ついで、大気保全局、水質保全局が担った公害行政と、企画調整局が担った環境管理関連行政の史的流れを概観する。次いで、局横断的ないくつかの視点から環境庁行政の主要な流れについて論じ、環境庁行政の全体像を、公認の「環境庁○○年史」とは別の観点から照射しようとする試みである。

なお、ここでいう日本環境庁行政には、環境庁系列の地方自治体の環境行政組織が所掌する行政を含める。本研究が、韓国環境部行政を考察する際のヒントにもなることを期待したい。

二 自然保護局行政の発展過程

環境庁発足に伴い自然保護局が新たに設置され、厚生省国立公園部が担っていた自然公園行政等および林野庁が担っていた鳥獣保護・狩猟行政を担うことになった。環境庁発足時の主要政策課題は「公害の未然防止」と「すぐれた自然の保護」に集約された。後者を主として担ったのが、自然公園行政であった。

また、それまで自然保護総体に関する責任官庁は存在していなかったが、環境庁は環境庁設置法および一九七二年に制定された自然環境保全法により、理念的には日本の自然保護、自然環境保全総体の責任官庁とされた。しかし、それはあくまで理念だけであり、それまでどおり自然公園等のprotected area政策が主体であり、他省庁のprotected area 政策へは関与できず、鳥獣保護・狩猟行政(本行政の主要な部分を占める鳥獣保護区もprotected area と観念される) 以外には、いわゆる白地地域の自然環境保全に対する権能は皆無であった。

本節では、1. protected areaの代表的なものとして自然公園について、厚生省時代の前史から今日までの流れを追い 2.ついで、自然環境保全法に基づく、あらたなprotected area行政の変遷を取り上げ、3. さいごに、protected area以外の自然保護政策をスケッチする。

なお、自然保護局が担う鳥獣保護法行政、温泉法行政等については基本的には割愛した。

(一) 自然公園行政

ア 自然公園とprotected area

「すぐれた自然の保護」に関して言うならば、自然公園システムが戦前から存していたものの、それが観光開発による過度の自然の破壊をもたらすことなく、「すぐれた自然の風景地の保護」としての機能が定着安定するようになったのはやはり一九七〇年代前半であった。

すぐれた自然の保護のためには、まず「すぐれた自然」を、protected areaとして明示しなければならない。 protected area には、土地の所有・管理権に基礎をおく「営造物制」のものと、公共の福祉のために土地所有の如何にかかわらず一定地域に対して公的規制を行うものとがあり、後者は一般に「地域制」と呼ばれている。国際的には、営造物制が主流である。

日本のprotected area は基本的に地域制を採用している。厳正な保護管理という観点からは営造物制が望ましいのはいうまでもないが、地域制の protected area は目的と効果との乖離が大きすぎる(ときには地域指定がかえって自然破壊を招いたなどと酷評されることもある)など多くの欠陥と制約をもちつつも、一般に狭い国土に多くの人口をかかえている国について、広域的な自然環境の保全を図るには有効な方法であり、とくに国土利用計画が確立していない場合には、それ自体が国土利用計画の一部の代替となりうる。

風景保護、学術上貴重な地物の保護、野生生物保護等さまざまな異なった目的の protected area system があるが、「すぐれた自然の風景地」はおおむね「学術上も重要な自然」であり、「重要な野生鳥獣の生息地」であるのがふつうで、こうした各種制度の競合と重複は避けられない。重複を避けることが、法律上あるいは運用上で定められていることもあるが、たとえば日本においては自然公園法に基づく自然公園(環境省)の大半は森林法上の保安林(林野庁、完全な意味でのprotected areaとは定義しがたいが、同様の機能を一部結果的に果たしている)であり、鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律の鳥獣保護区(環境省)や文化財保護法の天然記念物(文化庁)などを区域内に包含することも多い。

また、地域制の場合、protected area の指定に関しては、開発部局や地権者の指定に対する抵抗が強く、妥協せざるをえないことも多々あるし、かつ指定後も各種開発との調整が絶えず、多くの場合、結果としての多目的利用を許容せざるをえない。日本の自然公園においては造林地や農地、集落も包含していることが少なくない。

また地域制の場合、重要性に応じた subzone を設定して規制の強弱をつけることがしばしば行われる。 韓国においても日本同様、地域制のシステムによる各種protected areaがある。日本の自然公園に対応するものとしてやはりNatural Park が、日本の自然環境保全法に基づくprotected area に対応するものとしてEcosystem Conservation Areaが、日本の鳥獣保護区に対応するものとしてBird/Mammal Protection Areaがある。 韓国においては、一九九七年には島嶼生態系保護法を制定し、さらには一九九九年に湿地保全法を制定、湿地保全地域制度を設けるなど、日本より進んでいる事例もあるが、一方日本では一九九三に「種の保存法」によるprotected area が誕生したなどの差異はあるものの、日韓両国の環境庁、環境部が所管する protected area system はほぼ相互に対応している。ここでは触れないが他省庁の所管する各種のprotected area も日韓両国でほぼ同様の状況にある。

イ 自然公園の基本的なシステムと指定の現状

日本においてprotected areaとしての一定の実質を有し、広域な地域を指定しえた代表的なシステムは自然公園法による三種の自然公園であり、他のシステムは保護管理規制においてはなお実質に乏しいか、狭小な面積しか指定しえていない。また、他のシステムの指定、規制の構造は自然公園と類似しており、その意味からも代表的なシステムとして自然公園を取り上げ、そのシステムを概説する。

日本では自然公園法に基づいて指定される国立公園、国定公園、都道府県立自然公園の三種類の自然公園がある。国立公園は日本を代表するに足る傑出した自然の風景地で環境庁長官(現・環境大臣、以下同じ)が指定し、管理するものとされている。国定公園はそれに準ずる自然の風景地とされ、都道府県知事の申し出により環境庁長官が指定し、知事が管理するとされている。都道府県立自然公園は都道府県域内での自然の風景地とされ、自然公園法に基づく条例を知事が制定して指定するものである。日本の自然公園は国土の一四%に達する広大な面積を有する。国立公園に関して言えば、国土の五%強を占めている。土地所有別にみると、国有地が六二%、公有地が一四% 、民有地が二四%となっているが、その国公有地も大半が国有林(林野庁)や公有林(自治体林務部)であって、林業経営を行っており、環境庁所管地は国立公園面積のわずか0.二%にしか過ぎない。

自然公園の目的は「すぐれた自然の風景地を保護するとともに、利用の増進を図る」こととしており、そのため公園計画(保護計画と利用計画)を定めることとしている。保護の具体的な手法としては、保護計画に基づき特別地域等のsubzoneを設け、subzoneごとに一定規模以上の各種行為を環境庁長官等の公園管理者の要許可・要届出行為としている。そして景観保護のため不許可や条件付許可、届出に関しては禁止命令や措置命令がだしうる。つまり国民の福祉=風景地の保護のための公用制限を課している。ただし、法には「財産権尊重規定」「他の産業、公益との調整規定」「損失補償規定」を定めている等、極端に強権的な規制ができないようなブレーキがかかっており、施行規則で許可基準を明定している。また、利用の増進のためには利用計画に基づき、利用施設の整備を「公園事業の執行」として直接、あるいは補助金でもって整備するし、公園管理者以外の者も公園管理者の承認や認可をえて公園事業が執行できる仕組みである。

韓国においても、日本と同様、自然公園法に基づく国立、道立、郡立の三種の地域制の自然公園があり、やはり日本同様各種行為に公用制限を課すことにより保護を図っている。民有地を二五%含み、、国立公園の大半を占める国有地についてもほとんどが林野庁所管の国有林で、林業経営を容認しているなど日本のシステムに酷似している(というよりは先行した日本のシステムを取り入れたのであろう)。 制度の創設は一九六七年の国立公園法の制定に始まり(日本は一九三一年)、一九八〇年に自然公園法として発展的に解消されて、道立公園、郡立公園制度も誕生した(日本では同様のことが一九五七年に行われた)。当初建設省が所管していたが、一九九八年に環境部に所管が移った(日本では同様のことが一九七一年の環境庁設置により行われた)。

日本とのちがいのひとつは国立公園の現地管理体制である。日本では環境省が全国一一の地区自然保護事務所を置き、そのもとに全国に二〇〇人の自然保護官が、許認可指導、施設整備等の現地管理を行っているが、韓国においては現地管理は、一九八七年から国立公園管理公団(七〇〇人)が行い、さらに地域制であるにもかかわらず、入園料も徴収しているなど、より濃密な公園管理を行っており、韓国のほうが或る意味では先進的である。また、国立公園内に生態系保全のため休息年の制度を導入しているのも日本にはない先進的な試みである。

ウ 自然公園制度の変遷・発展過程

(前史) 
日本の自然公園制度の沿革をたどれば、一九三一年、国立公園法が制定されたことにはじまる。一九三四年三月、三つの国立公園が指定されたのを皮切りに逐次指定が進んだ。法制度上は現行の自然公園法の国立公園とほぼ同様だが、現地管理体制はほとんど整備されないまま、戦争に突入し、国立公園法の施行事務は停止された。

戦後復興期、GHQの指導下に国立公園の指定は急速に進んだ。国立公園を管轄していたのは、戦前は内務省の一係にすぎなかったのだが、一九四八年には一気に厚生省国立公園部が誕生した。 このことは米国がいかに自国の国立公園システム(営造物制)に誇りを感じているかを物語っているが、地域制という根本的なシステムはいかにGHQといえども変更し得なかった。 一九五三年には米国のパークレンジャーシステムに範をとった国立公園管理員制度(のちに国立公園管理官に改称、現在では自然保護官)も生まれた。一九六〇年には日光国立公園管理事務所が、翌年には富士箱根伊豆国立公園管理事務所が誕生したが、そのご長期にわたって新たな管理事務所の設置は認められなかった。 また、都道府県においても国立公園指定の要望が数多く出され、一九四九年には国立公園法が改正され、「国立公園ニ準ずる区域」規定が追加され、国定公園制度が誕生した。さらに、都道府県が独自に条例を制定し、都道府県立自然公園として指定、管理する事例も続出。これらを法制度上整合させるために、一九五七年国立公園法を改正し、自然公園法が誕生し、現行の自然公園体系が確立した。 国立公園はかくて戦後十年で公園数、面積とも倍増し、そのごもなお増加したが、一九六五年の時点ではほぼ打ち止めに近くなった。これは国立公園は定義上「日本を代表するに足る傑出した自然の風景地」となっており、三〇も四〇もあるのはおかしいということから、新規の国立公園指定には多くの場合難色を示したからである。

国定公園もまた増加していった。一九五五年から一九六五年の十年で公園数は倍増、公園面積も五割アップした。都道府県立自然公園は一九六五年から同レベルで推移しているが、それはかなりの部分が逐次国定公園に昇格を果たしたからで、それを穴埋めするかのように、新規指定が増加しつづけていき、この状況は鈍化しつつも今日までつづいている。 自然公園が土地利用に制限を課すにもかかわらず広大な面積を指定しえたのは、極端な強権的規制ができない仕組みになっていることはもちろんだが、それ以上に自然公園が単なる規制システムだけでなく、一種の反対給付(政府による施設整備や知名度アップによる観光産業の発達)を受けられるシステムであることから、地元や地方自治体が積極的だったことがあげられるし、主として山村部であることから個々の土地所有者というより地縁血縁型共同体システムが機能し、地方自治体のネゴシエーションが効を奏しやすい状況だったと考えられる。このことは同時に protected area としては不徹底なものにならざるをえないことを意味している。 当時の国立公園の規制、管理は法の建前とはうらはらに実体的には都道府県に負うところが多かったのであるが、それを担当している部局はほとんどが商工部観光課であった。

(開発との相克)
自然公園は国土面積の一割を越すようになったが、戦後復興から高度経済成長期のなかで、さまざまな開発との相克にあえいできた。

ひとつは公園区域内での電源開発や大規模工業開発である。一九五十年代後半から六十年代にかけて、許可せざるをえなかったり、許可でなく公園区域を解除して実現せしめた事例がいくつも登場した。  もうひとつは過剰な観光開発である。クルマ社会の到来ということもあり、一九六〇年代後半、公園の核心部(各種subzoneのうち規制がもっとも厳しいとされる特別保護地区、第一種特別地域を指す。以下同じ)にまでスカイラインやスーパー林道やロープウエイが建設されるようになった。

また、自然公園はその核心部をのぞき、林業との共存をもともと前提にした制度である。その林業の態様がおおきく変わってきた。機械化が進み、大規模な官行造林が公園内でも行われるようになり、自然公園の風致はそこなわれた。さらには砂防ダムや河川工事などの公共工事が、既着手行為の一環として、或いは新規の許可をえてどんどん公園内でも行われるようになった。「他の公益との配慮規定」もあり、ほとんどの場合拒否しえず、修景緑化などを条件にして容認せざるをえなかった。

一九六〇年代後半に入って、主として過剰な観光開発に関して、反対運動が都市部の有識者、自然愛好家らを中心に起こり、公害反対運動と相俟って全国を席捲したのである。

ただし、公害反対運動と大きく異なるのは、地域住民が多数派となることはなく、そのため都道府県も公害対策におけるような先行的な対策はとることはあまりなかったことである。

(環境庁移行前後)
こうして、すぐれた自然の保護を求める世論に応えるべく、規制の運用は厳しくなるとともに、一九七一年、環境庁設置に伴い厚生省国立公園部は組織ごと環境庁自然保護局として移籍したのである。また、それまで林野庁で行っていた鳥獣保護行政も移管されたが、その主力は依然として自然公園の指定・管理・整備であった。 現地管理体制も強化されはじめ、それまで二ヶ所にとどまっていた国立公園管理事務所も一九六八年以降逐次設置されはじめ、一九七三年までには全国十ケ所に国立公園管理事務所が設置されるに至った。 なお、この前後、都道府県においても自然保護課等を設置し、自然公園の所管を従来の商工部観光課から移したところも多い。

環境庁に移ったのちも、湧き上がる世論のなかで、国立公園内の運用面での規制強化は一層強まった。法的手続きはすべて終了した尾瀬道路の廃止要請、大雪道路の否認等個別案件に関して厳しい姿勢で臨むだけでなく、ゴルフ場を法で規定する公園施設から除外し、特別地域内においては新規ゴルフ場を認めない方針を打ち出した(一九七三年)。また、それまで許可基準もなく、政治的な圧力に屈することも少なくなかった公用制限の運用について、統一的なガイドラインを局長通知の「審査指針」として示した(一九七四年)。一方、公園事業の名のもとに自然公園核心部においてさえ、しばしば容認してきた大規模な観光施設の新設も、少なくとも核心部については認めないとする方針も打ち出した。さらに核心部における民有地の交付公債による買い上げ制度(一九七二年)や税の減免など、実効性に欠ける損失補償規定を補完する制度を設けた。

自然公園の指定に関して言えば、一九七二年、西表、小笠原、足摺宇和海の三つの国立公園が指定された。国定公園もなお増加を続け、環境庁設立後の一九七五年には公園数、面積とも六五年に比べてなお倍近くになっている。 また、一九七三年には既存の公園計画そのものを五年で見直すと宣言した。目的の第一は規制の強化である。公園計画(保護計画)で特別保護地区や第一種から第三種の特別地域が定められるが、これをグレードアップしたり、普通地域の重要部分の特別地域への指定、地種区分未決定(第二種特別地域扱い)の特別地域についての地種区分、公園区域の明確化等が狙いであった。

(七五年以降の自然公園行政)
こうして大々的に公園計画見直しが始まったが、保護計画の強化は難航した。国立公園管理事務所などの現地駐在職員や都道府県自然公園担当課・係が原案策定作業に入ったが、スケジュールは遅れに遅れ、今日でもなお終了していない公園が多数ある。終了した公園においても、当初意図した全面的な保護計画強化は不可能で、部分的な保護計画強化と市街化した地域等の公園区域からの削除や保護計画緩和とセットで終わったところが多い。このことは土地の所有権に基礎を置かない地域制公園における、保護の強化を行うことのむつかしさを物語っている。世論の沈静化に伴い、林野庁はじめ他省庁も県庁内他部局も市町村も保護規制強化に強い難色を示したからである。

また、公園面積の大多数を占める核心部以外の地域については、審査指針が依然定性的な記述に終わっている部分が多いことや、さまざまな例外規定があること(とくに公共事業)もあって、厄介な個別案件に忙殺された。 また、公園の管理についても国立公園管理事務所の新たな設置は一九七四年以降認められず、十の国立公園については国立公園管理事務所、他の公園は本庁直轄の国立公園管理官が駐在しているという情勢がつづき、全国立公園に管理事務所を設置するという展望は見直しを余儀なくされた。

かくて一九七九年には、ブロック制を敷くことに方針転換、全国立公園管理官を十の国立公園管理事務所の指揮下においた。そして、すべての国立公園の許認可について所長に一定の専決権を付与するなどの体制整備を行った。 一九八七年、二八番目の国立公園が指定された。釧路湿原である。生態系の保全を主目的とする新しいタイプの公園であるが、この指定が可能になったのは、ラムサール条約(一九八〇年批准)等国際的な湿地保全の流れであろう。 八十年代末にはいわゆるリゾート法が制定、全国にリゾートブームが席捲。核心部以外の区域については、一定のリゾート施設整備が進んだが、それは当時国際的に言い出されたwise useとは縁遠いものであった。

(九十年代)
九十年代に入って、林野行政との関係が微妙に変化してきた。すなわち、林野庁は国有林野特別会計制度のもとで、国有林を経営してきた。自然公園との関係でいえば、指定に関して施業制限が加えられることから、指定そのもの、或いは保護計画の強化に対して厳しい姿勢で臨んできた。

しかし、九十年代に入る頃から、国有林野特別会計の赤字は巨大化し、再三のリストラに迫られた。かくて、「部門間配転」という形で、毎年一〇名程度、林野庁から環境庁職員に繰り入れられるようになり、国立公園管理事務所に配属されるようになった。その結果、総定員法の枠のなかで定員増はきわめて制限されているにもかかわらず、国立公園の現地管理職員はほぼ倍増するに到ったし、林野庁との関係は好転し、協力関係が深まった。 そのごも国有林野特別会計制度の赤字は肥大化し、その破綻は今日だれにでも明らかになっている。さまざまないきがかりで実現しなかったが、特別会計制度の見直し、原生林や自然公園内の天然林の管理の環境庁への移行などが検討されるようになった。いずれ再燃することはまちがいないと思われるし、その暁には米国型の営造物に一歩近づいた新しいタイプの国立公園も誕生の可能性がある。

また、自然公園行政を担ってきた国立公園管理事務所は国立公園・野生生物事務所に改称(一九九四年)、さらに二〇〇〇年には自然保護事務所とされ、一部の鳥獣保護・野生生物事務(国設鳥獣保護区の管理やワシントン条約国内法関連など)や自然環境保全法の指定地区、種の保存法(一九九三年)による生息地等保護区の管理も分担するなど、自然公園の枠から出た業務も担当するようになった。

一方、この時期には地方自治体との「もちつもたれつ関係」が大きく変わった。地方分権が大きな政治課題になり、地方分権法が制定されたのであるが、自然公園管理も大きく変わらざるをえなかった。それまでは機関委任事務として国立公園内の軽易な案件の許可等は知事が処理していたし、環境庁権限の許認可事項についても知事の意見を聞き、環境庁直轄事業もその工事施工を知事に委任するなど、国立公園は国が管理するという建前にもかかわらず、実体的には都道府県の自然公園担当課と一体的になって管理していた。また、国定公園の管理は知事の専管事項であるにもかかわらず、一定以上の規模の許認可行為は通達で環境庁との事前協議を義務付けていたが、二〇〇〇年に至って、基本的には国立公園は環境庁が、国定公園は県が管理するということで、県知事委任を定めた施行規則も廃止した。環境庁直轄事業についても、自然保護・野生生物事務所において執行できるようになった。また、許可の際のガイドラインとされていた「審査指針」(局長通知)も施行規則として明定されるなど、それまでの便宜主義的な管理にメスが入りだした。

さいごに自然公園の施設整備事業に触れておこう。歩道、駐車場、ビジターセンターなどの利用施設の整備費、整備費補助金は環境庁創設以降一貫して増加傾向にあった。長距離自然歩道、都道府県立自然公園の施設への補助など、国立・国定公園外への進出も可能になったが、とりわけ九十年代は施設整備費は飛躍的な伸びを示した。ひとつはウルグアイラウンドなどで、内需拡大のための公共投資の増加を国際的に約束したこと、バブル崩壊以降景気対策としての補正予算がふんだんにばらまかれたこと等があり、ついに自然公園等施設整備事業は財政法上の「公共事業」として認められ、「緑のダイヤモンド事業」、エコミュージアムといった、以前には考えられないような大型のハコモノが続出するにいたった。一方ではソフトな予算の増加が小さいことなどそのギャップが一段と拡大した。

最後に九〇年代に入って、個別案件の許認可をめぐる政治家の介入は著しく減り、それへの対応に割くエネルギーが大幅に減少したことを挙げておこう。自民党単独政権の崩壊、情報公開の流れや社会全体の環境志向への変化が背景にあるのであろう。

(二) 自然環境保全法行政

環境庁設立後の一九七二年、自然環境保全法が制定された。この法は前半が基本法、理念法であり、後半で実体法として新たなprotected area systemを創設した。ちなみに韓国において本法に対応する環境保全法が制定されたのは一九七七年で、一九九一年に現在の自然環境保全法となった。

自然環境保全法でもって環境庁が単に個々のprotected areaのみならず、理念的には自然保護総体の責任官庁であることが明確に示された。もっともそれはあくまで理念であって、個別具体的な国土総体の自然保護に関する権原は有しえなかった。また、本法で自然環境保全基礎調査、略称「緑の国勢調査」を行うことがはじめて規定され、以降、自然公園という枠の外でも自然環境の調査・評価をなしうるようになった。

以上のように自然公園政策同様、自然保護政策の領域においても環境庁創設後数年のうちにいくつもの重要な前進ないしは前進のための制度上の受け皿が設けられたのであるが、それが十全に機能したか機能しなかったかが、このあと問われることになる。

ア 自然環境保全法によるprotected area

(スタートとシステム)
新たなprotected area system として原生自然環境保全地域、自然環境保全地域、都道府県自然環境保全地域の三種類の保全地域制度が創設された。それぞれに保全計画に基づく特別地区等の sub zone を持つなど、自然公園法の三種の自然公園とほぼパラレルな指定、管理の制度である。この三種の保全地域と三種の自然公園を規制の強弱で比べると、国有地のみにしか指定できない原生自然環境保全地域は自然公園特別保護地区よりさらに厳正な規制であるが、他の二地域の特別地区、普通地区は自然公園の第二、三種特別地域および普通地域とそれぞれ同等程度の規制にしか過ぎない。

本制度創設の目的は自然公園が自然の風景地の保護とその利用をうたっているのに対し、風景に着目してでなく、「すぐれた自然環境」に力点を置くとともに、自然公園の利用がしばしば自然破壊につながったことの反省の元に、(公衆)利用の推進をうたっていない。しかし、土地の所有・管理権を有しない地域制のシステムであるから、このことは公衆利用そのものを拒絶することを意味していない。原生自然環境保全地域を除けば、一般の利用施設そのものの設置も可能であって、ただその整備に対して国は助成措置をとらないことを意味しているに過ぎない。

また国土利用計画法が一九七四年に制定、国土庁が所管することになったが、この法で定めた土地利用基本計画においては全国を五つの利用区分、すなわち都市地域、農業地域、森林地域、自然公園地域、自然保全地域に区分することとされた(重複は認められる)。このうち自然公園地域は自然公園法でいう自然公園、自然保全地域は自然環境保全法による三種類の保全地域に対応するものとされたから、当初、民有地を含めて相当広範な指定を期待していたものと考えられる。

(八〇年代半ばからの地域指定の停滞)
本法による三種類の保全地域の指定は、当初こそ順調だったが、一九八〇年代に入って遅々として進まなくなり、国土面積に占める割合は微々たるものにとどまった。

自然環境保全法による三種の地域のうち、原生自然環境保全地域は地域の自然環境の完全保存を目的としたものであり、もともと広大な面積の指定は意図されていなかった。他の二種の地域は、自然公園同様、民有地も含めた広大な地域の一定程度の保護を目的としたProtected Areaであるにもかかわらず、自然環境保全地域についていえば、指定しえた地域は、自然公園と比べてきわめて小面積となっており、その総計が国土面積に占める比率はコンマ以下である。また、自然環境保全地域はほとんどすべて国有林である。また自然環境保全地域については、ほとんどすべてが特別地区または海中特別地区になっており、バッファゾーンとしての普通地区は皆無である。

都道府県自然環境保全地域は、指定はしたものの保全計画が未策定のままのところが多く、結果として普通地区の方が広く、そうした普通地区では民有地もかなり存するが、これは事実上規制されていないも同然である。特別地区が指定された都道府県自然環境保全地域は面積も小さく、まさに点的に散在しているにとどまっている。 自然環境保全地域と都道府県自然環境保全地域は、前述のように特別地区であっても規制自体はさほど厳しいものでないのに、自然公園に比すると指定面積が格段に小さいのは、自然公園のように公衆利用の推進というファクターがないため、地域振興という反対給付が期待できず、地元からの指定要望はほとんどないこと、そのため土地所有者や土地を所管している機関の協力をえられにくいことがあげられる。事実、当初国有林内の適地の指定に一定程度協力的だった林野庁もこの時期の後半以降、そうした適地も将来の施業予定地であるとか、自ら保護林として内部措置で保全するからとかいう理由で、拒否の姿勢が顕著になった。

自然公園の区域内には、原生自然環境保全地域や自然環境保全地域とするほうがふさわしい地域が多々含まれており、当初はそういう編成替えすることも検討されたようであるが、同様の理由で地元同意が得られる見通しがなく、断念せざるをえなかったようである。

そのため自然環境保全地域としていままで指定された地域は、法的にゆるい規制しかかけていないにもかかわらず、開発計画がなく許可申請がほとんどあがってこないところばかりで、土地を所管している機関や土地所有者との指定後の軋轢はまったくない。

かくて意図していたものより保存的自然の色彩が強くなり、こうした実績が自然環境保全地域=厳正自然保護というイメージを与え、新たな大幅な指定に対するブレーキになっていたと考えられる。

しかし、九〇年代に入って、状況が変わった。白神山地の青秋林道反対運動が地元を中心におおきく広がり、一方全般的な環境ブームが再燃しはじめるなかで、一九九二年、白神山地が世界最大のブナ原生林として世界遺産に登録されると共に、例外的に巨大な自然環境保全地域に指定された。このことは前節でも述べたとおり赤字に苦しむ林野庁自体の姿勢の転換がうかがえる。

前節と本節で述べたとおり、環境庁は自らの所管するprotected area の充実強化でもって、「すぐれた自然」の保全に一定の前進と効果をもたらしたが、都市化の嵐の中で都市周辺の身近な自然の保護保全にはほとんど寄与し得なかった。建設省の所管であるとして、都市計画地域のなかには入り込めなかったという事情だけではない。一九七三年、都市周辺の良好な自然を保全するため、建設省所管の都市緑地保全法が制定された。これも他のprotected area 同様地域制の「都市緑地保全地区」を指定しようとするものであったが、ほとんど指定し得なかった。地価がはてしなく高騰し、公共事業が都市周辺の河川や海岸を改変していくなかで、地域制の手法ではいかんともしがたかったのである。

なお、七十年代、自治体では自然保護条例を制定するところが続出、独自の地域指定制度(例えば「緑地環境保全地域」)を設けた例も多かったが、パフォーマンス効果はともかくとして、実体的にどのていど開発抑止効果があったかは疑問が残る。

イ その他の自然環境保全法行政

自然保護全般の所管が環境庁であるとされたが、それはいわば理念だけであり、国土全般を対象とした自然環境保全基本指針(一九七三年)も具体の権限を環境庁にもたらすわけでなく、他省庁のprotected area system の指定管理や、いわゆる白地地域内での開発に対しての自然保護の観点からの立地規制には、閣議アセスメントに際してのきわめて限定された関与を除いて、ほとんどなにもなしえなかった。

しかし、自然環境保全基礎調査が一九七三年より全面展開され、調査結果も逐次公表された。このこと自体は直接的な行政効果を生みだしたわけでないが、いわゆる白地地域における大規模開発に対する反対運動への材料提供と活発化につながり、そのことが開発サイドに対する一定の自主抑制効果をもたらした。ボデイブロウ効果を徐々に発揮しだしたと評価できよう。そして九十年代に入って、公共事業批判の波のなかで、アセスメントを通しての白地地域関与を強めていくことになるが、これらの問題については別項で論じる。

また、九〇年代に入って「生物多様性」という概念が、国際的な自然保護政策のキーとなり、九三年には生物多様性条約を批准し、九五年には「生物多様性国家戦略」が閣議決定された。これ自体は各省庁の既存の自然保護関連施策を取りまとめたに過ぎないが、やはりのちのちボデイブロウ効果を発揮していくことになろう。同時期、「種の保存法」も制定され、自然保護局全体として自然公園の枠組みから出て行く動きに拍車がかかった。

二 公害・環境管理行政の展開

ここでは自然保護局以外の環境庁行政のうち、公害部局(大気保全局、水質保全局)の大気・水質保全政策領域(典型七公害のうち大気、水質に限定)および企画調整局行政のうち庁内他部局との横断的、統合的関係が深い政策領域(仮に環境管理行政と名づけておく。環境アセスメント等も含まれる)に限定してその流れを概観する。

(一) 前史―公害政策定着安定期まで

産業公害をメルクマールにした公害政策の定着安定期までについては多くの先行研究があり、割愛するが、基本的な流れだけは筆者なりに整理しておくと一九七五年ぐらいまでは

  1. 戦後復興の中で戦前からの大工場や工場地帯での産業公害
  2. 高度経済成長期のコンビナート公害等産業公害の全国化、広域化
  3. 産業公害反対運動の激化とそれに対応しての地方自治体での公害政策の展開
  4. 公害対策基本法の設置、公害国会、環境庁設置と公害対策の飛躍的前進と体制整備、全自治体での公害防止条例と公害課設置
  5. 激烈な産業公害の沈静化

という流れになるが、地域ごとにかなりのタイムラグがあることも見逃せない。

例えば公害対策先進地、ないしは公害汚染深刻地域である大阪府の場合は公害課設置は一九六一年年であったが、鹿児島県の公害対策室設置は一九七〇年であり、約十年の開きがある。

また、一九六四年には沼津、三島でのコンビナート反対運動が置き、進出断念を余儀なくされた反面、七十年代後半に入っても「むつ小川原」や「志布志」では地域を二分する大きな反対運動を伴いつつ、大規模コンビナート建設の動きが進められていた。 なお、4. から5. の時期、環境管理政策・行政として挙げられるものに以下のものがある。

まず、公害防止計画制度が敷かれ、次いで一九七〇年の米国のNEPAに範をとったアセス法制定に全力を挙げた。しかし、産業界の強い反対の前に法案の内容は後退を余儀なくされたにとどまらず、最終的には法制化は葬られ、かわりに一九七四年いわゆる閣議アセスメントが制度化された。

また、化学物質対策としては、いくつかの物質について公害部局で出口対応(環境基準の設定と排出規制)を行うとともに、上流対策としての「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律」、いわゆる化審法も制定されたが(一九七三)、環境庁の関与は部分的なものにとどめられた。

また、主として厚生省が所管する廃棄物行政に関しては従来の清掃法に代えて、廃棄物処理法が制定され(一九七〇)、現行システムがはほぼ定着した。 また地方自治体においては環境庁創設までにすべての都道府県で公害課か設けられただけでなく、自然保護、廃棄物と併せての環境部局が誕生したことも記憶しておきたい。

(二)七五年以降八十年代:「環境庁冬の時代」または雌伏期

環境庁制定前後の数年間、劇的な規制強化を遂行、産業公害が沈静する一方でオイルショック(一九七三)が置き、環境熱は急速に冷えていった。アセス法制定挫折がそのメルクマールだったといえよう。以降、環境庁不要論まで云々されるなかで、その是非は別としてNO2の環境基準緩和(一九七八)と公害健康被害者法第一種指定地域解除(一九八七年)といったネガテイブな環境政策がとられ、そうした九〇年頃までを「環境行政冬の時代」とか沈滞期とか呼ぶ評価が一般的である。

狭義の公害行政においては、なお各種戦線において局地戦が展開され、いくばくかの前進を成し遂げたが、全体としての産業公害の沈静化に伴い、もはや次から次へと新規物質の環境基準を制定したり、新規規制を行ったりというのは不可能であった。都市生活型公害がクローズアップされても、End of Pipe対策というツールでは行政対応は困難であった。もちろん生活排水対策を打ち出した水質汚濁防止法の改正等がなされたが、効果としてはパフォーマンスの域をでるものでなかった。

公害部局が組織として維持発展するには、絶えざる規制基準強化や新規規制を目指さざるをえないが、それが困難な中で、規制の必要性をPRし、そのための調査を開始し、結局は規制そのものにと至らず、さらなる調査を行うというマッチポンプ型、または調査のための調査型対応のようなものも散見されるようになったが、一方、個別物質の新規規制に代わるものとして、よりソフトな普及啓発(例えば「名水百選」一九八五年)やビジョンづくりなどの非規制的な、あえていえば環境管理的手法が模索されはじめたのも無視できず、それが九〇年代に入って全面展開する下地をつくったのであり、そういう意味では「公害・環境管理行政雌伏期」と呼ぶほうが妥当であろう。

瀬戸内海環境保全特別措置法による瀬戸内海環境保全計画(一九七八年)、湖沼水質保全特別措置法制定(一九八四年)とそれによる湖沼水質保全計画制度といった環境管理計画的なアプローチが挙げられるし、大気保全では炭化水素対策としての発生源インベントリー整備(一九八〇年)はある意味では早すぎたPRTRであった。

狭義の環境管理行政を所掌する企画調整局における主戦場は環境アセスメントの法制化であった。しかしながら、アセス法制定に挫折し、閣議アセス制度で終息せざるをえなかった。しかし、地方自治体では、川崎市のアセス条例(一九七六年)を皮切りにアセス条例・アセス要綱が多くの都道府県で逐次制定され、閣議アセスを補完した。これらは、アワスメントとしばしば揶揄されるように、アセスメント結果で開発計画そのものが断念されたり、大きく変更を余儀なくされた例はない(この点については後述する)。しかし、前節で述べたように自然環境保全基礎調査が開発計画への有形無形の影響を与えたことは事実であり、そういう意味では自然保護行政との連携はこの基礎調査を介して進んだといえよう。

企画調整局としては絶えざるアドバルーンを挙げざるをえない立場にある。アメニテイや環境管理計画、地球環境問題など次々と報告書を発表した。数々の環境関連国際条約が締結されたり、国際会議が開催されはじめたのも、この時期であり、地球温暖化やオゾン層破壊といった地球環境問題がしばしば話題になったのもこの時期の後期であるが、大きな社会問題化し、直接的な政策効果を生み出すには、なお時間とタイミングが必要だった。

また、この頃から化学物質問題がしばしば話題になった。一方では、測定技術が発達し、さまざまな微量化学物質がつぎつぎと一般環境や生物体内から検出されだした。そのレベルの化学物質の健康影響がほとんど不分明ななかではモニタリングをするしかなかった。さらにそうした化学物質に対するマルテイメデイア、クロスメデイアアプローチの問題意識も行政部内で生まれてきたが、具体的な施策として日の目を見るにはなお時期早尚であった。

こうした問題を全面開花させたのは九十年代に入ってのダイオキシンパニックであるが、その端緒もこの時期にあった(高知の廃棄物焼却場のフライアッシュからのダイオキシン検出と暫定的な行政対応)。 この時期の最後、一九八九年に旧ソ連でチエルノブイル原発事故が起きた。このことがソ連崩壊のひとつのきっかけとなっただけでなく、ヨーロッパでの環境熱を一気に高め、やがて数年後に世界を席捲することになる。

(三)九〇年代の急展開

チエルノブイルを契機にヨーロッパの環境志向は強まった。また、米国でも地球温暖化問題が政治問題化してきた。熱帯雨林の破壊や途上国における劇的な都市化の動きに伴う環境悪化などにも着目されはじめ、一九九二年気候変動枠組条約採択、同年のリオサミットなどで、「環境志向」は一気に強まり、翌九三年には、公害対策基本法が廃止され、環境基本法が制定されたし、組織としては地球環境部が誕生した。フロン規制法、地球温暖化法など、地球環境・国際対応もこの時期急速に実施に移された。

また、化学物質対策も本格化した。公害部局ではいわゆる微量有害物質(例えばトリクレン等三物質)を対象として、環境基準を追加したり、暫定基準を設け監視を強めたりとした個別法にもとづくさまざまな規制強化を行った。こうしたなかで、公害部局間での連携は強まり、いわゆるマルテイメデイアプローチが実を結び始めた。

水質保全領域では海域のN、Pの環境基準や排出基準が定められた(一九九三年)。八〇年代から問題が提起されていながら、産業界の抵抗で実現しなかったものが、妥協を余儀なくされながらも、ついに陽の目を見た。社会全体の環境志向がそれ以上の抵抗を許さなかったのである。

一九九七年、環境庁悲願の環境アセスメント法が制定された。この前後から公共事業批判が全国各地で同時多発的に広まった。 また、同年、大気ではベンゼンの環境基準が制定され、発生源規制も実施に移されたが、これは発ガンに着目し、閾値ではなく、リスクアセスに基づいて定められた初めての例である。

また、社会問題化していたダイオキシンについては一九九九年に議員立法で特別立法化、それにもとづいて、環境基準が制定され、さまざまな対策がうたれた。その他、化学物質対策では一九九九年、PRTR法(特定化学物質の環境への排出量の把握等および管理の促進に関する法律)が成立したことも見逃せない。

また九〇年代半ばからISO一四〇〇一の認証取得など、社会全体が環境志向を強めていくなかで、二〇〇〇年、循環型社会形成推進基本法(以下「循環基本法」と略す)が成立した。こうしたなかで目立ったのは、環境ブームのなかでの他省庁の対応である。 廃棄物行政(厚生省)ではごみ減量・リサイクル志向が強くなった。こうしたなかで、ついに九十一年廃棄物の発生抑制自体を法の目的に加えるという廃棄物処理法の抜本改正が行われ、同時に再利用の促進を図るリサイクル促進法(通産省)も制定された。そのごも廃棄物処理法の改正が数次にわたって行われ、また容器包装リサイクル法、家電リサイクル法が制定。二〇〇〇年には循環基本法と同時に食品リサイクル法(農水省)、建設廃材リサイクル法(建設省)が制定、浄化槽法(厚生省)が改正されるなど、環境関連の重要な法制度の成立や改正が相次いだ。

さらに九〇年代後半には、河川法や海岸法も改正され、目的規定に環境保全が付け加えられるなど、各省の環境志向も顕著になった。単に法制だけでなく、事業でも環境志向が強まった。下水道や合併処理浄化槽の補助金が大きく伸び、海岸工事や河川工事でも近自然型工法が採用されたり、人工干潟造成が行われたりといった環境ブームは今日なお持続している。 そうしたなかで廃棄物行政を取り込んで二〇〇一年環境省が発足した。

つぎにこうした経年的にみたさまざまな動きを、いくつかのキーワードをもとに再整理してみる。

三 環境政策間の連関をめぐるいくつかの考察

以上述べてきたのはいささか粗っぽい筆者なりの環境庁部局別行政小史である。しかし、政策は、省庁部局の枠を越え、それ自体の内的論理をもって他の政策への影響を与え、出現をうながす。本節では、視点を変えて、関連するいくつかの流れとして私見を提示する。

(一) 環境庁行政の人的・組織的側面

環境庁行政の展開をみるうえで、人的・組織的側面に触れられることは少ないが、底流として無視し得ないものである。 自然保護局は厚生省国立公園部を主体に、林野庁の鳥獣保護・狩猟行政を統合したものである。厚生省の造園職技官および公園畑のいわゆるノンキャリ事務官はそのまま環境庁に移籍したが、鳥獣保護・狩猟行政は林野庁からの出向職員が中心で、環境庁に移籍した職員はほとんどいなかった。

大気保全局、水質保全局の技術スタッフは厚生省公害部の技官が中心であったが、移籍ではなく、厚生省水道環境部からの出向という形を取った。しかし、事実上は移籍に近い職員も多かった。また、これだけでは足りずに、他省庁からの出向者も多く迎えた。とりわけ大気保全局においては自動車公害課、水質保全局においては土壌農薬課がそれぞれ運輸省、農林省(のち農水省)の出城の様相を呈した。

企画調整局においてはヘゲモニーを握ったのは、厚生省をはじめとする各省からの出向組のキャリア事務官であった。 また、環境庁自体でも毎年上級職(現T種)職員を十人前後採用しはじめた。法律等の事務職キャリア、技術系では造園職、物理・化学職などである。これらの新規採用職員は職種を越えて横のつながりが生まれたし(これはかつての厚生省時代には考えられないことであった)、各局間の人事交流も活発になされるようになった。これらは、相互に刺激を与えたことであろう。また、いわゆるノンキャリア事務官、技官の採用も行われはじめた。

一般に役人の使命感は自らの組織の権限と予算の拡大に向けて働く。環境庁草創期を過ぎて以降の停滞期に、それが各局においてはどのような形で模索されたかを概括しておく。

自然保護局においてはゾーニング行政、即ち自然公園等の地域指定と管理が中心であったが、将来の発展方向としては二つの志向が生まれた。ひとつはこのゾーニングの枠からいかに飛び出して、オールジャパンで行政展開できるかということであり、もう一つはゾーニングのなかで、いかに主体的な行政展開がなしうるか、いいかえれば理想的な国立公園を作りたいという米国型の営造物公園化への願望であった。

大気保全局、水質保全局においては、個別物質の規制が当初の中心課題であったが、産業公害の沈静化と都市生活型公害の前面化はそれを困難なものにした。そのなかで、非規制的なビジョンつくりなどの環境管理的な手法を模索していかざるをえなくなった。

企画調整局においては、環境行政総体の地位役割の向上、いいかえれば環境保全型社会の構築とか、環境と経済との統合といった、上流対策を希求していた。そのとっかかりが環境アセスメントの法制化だったといっていいだろう。

それらを現実の手に届く課題にしたのは先にみたように九十年代であった。

ひとつは国際的な圧力であり、地球環境問題の顕在化であった。国内的には廃棄物の最終処分場不足と化学物質問題なかんずくダイオキシン問題から派生した循環志向である。さらにバブル崩壊後の反公共事業の流れであった。ここでは後二者を考察する。また、かかる状況は各省行政にも環境志向を強いるものであったし、一方での地方分権の流れは地方自治体の環境行政にも大きな影響をもたらしたものであったが、これらについても論考する。

(二)循環型社会への流れとダイオキシンパニック

一九九三年の環境基本法のキーワードの一つは「循環」である。そして二〇〇〇年には循環基本法が制定されるに至った。この間の経緯と環境庁行政の関わりを見ておこう。

高度経済成長を支えたのは、大量生産大量消費の流れである。しかし、このことは大量廃棄という結果を招く。廃棄物行政はこの流れの末端に位置し、適正な処理をレゾンデートルとするがそのためにも最終処分場を確保しなければならない。 そして最終処分場の逼迫が八〇年代を通して看過し得ないほど顕著になってきた。 処分場延命対策として八〇年代には中間処理(焼却処理)が一般的になったが、それに伴い公害対策も高度化、処理困難廃棄物も増加する中で、廃棄物対策は市町村財政を圧迫した。

こうしたごみ焼却場や最終処分場は、通常ごみの最大発生地(市街地)を避けて行われるが、そうした予定地周辺の住民にとっては、都会のツケを押し付けられるものとしてしか意識されなくなってきており、反対運動が活発になった。 一般廃棄物の最終処分場の残余年数は八年余しかないという(八年すればパンクするわけでない。新規に最終処分場用地を確保すれば、延命する)。つまり市町村は逆有償の補填など少々コストがかかっても、ごみの減量化資源化に本気で取り組まなければならなくなった。

ごみ減量のためのごみ有償化も北海道伊達町を皮切りに方々で出現してきた。そしてごみ減量のため法の規定にない拡大生産者責任、つまり最終ユーザーが市町村民であっても、その処理責任は市町村でなく、ごみとなった商品の生産者が負うべきであるという意識が自治体からもでてきた。こうした声が一九九五年の容器包装リサイクル法制定となった。しかし、産業界の強い反対のなかで、同法の拡大生産者責任は不十分なものに終わった。とりわけペットボトルの取り扱い(回収・運搬は市町村の役割とされた)について自治体からは不満が噴出したのである。

産業廃棄物もごみ(一般廃棄物)同様困難な状況にある、というか状況はより深刻である。産廃の処理責任は排出事業者にあるが、実際には八十年代には産廃業者への責任転嫁を容認してきた。こうしたなかで、市場原理がマイナスに働き、悪質な産廃業者による不法投棄はあとを断たなかった。こうした産廃処分に対する不信と怒りが、九十年代に入って爆発した。処理責任も指導権限も負わない市町村が住民といっしょになって反対運動を展開、各地で産廃処分場をめぐって住民投票が行われる事例が相次いだ。 厚生省は住民を慰撫するために産廃処分場の三セク化を可能にし(一九九一年)シュレッダーダストの処分場を安定型から管理型に移行し(一九九五年)、最終処分場の環境アセスと市町村長や住民への説明を義務づけるとともに全産廃にマニフェストを適用することとし(一九九七年)、とブラックボックスにあった産廃処分を適正にし、スムースに行かせるための対策を矢継ぎ早に打ったが、そのことがやっぱり産廃はこわくて危険だという意識を抱かせる結果に終わった。

それが各種リサイクル法制の制定につながったし、それにとどまらず生産や消費そのものも見直さなければならないという意識を広範に生み出した。

こうした動きを決定的に加速させたのがダイオキシンパニックであるというのが筆者の仮説である。 測定技術が進歩する中で、いわゆる微量化学物質が一般環境から生体内からつぎつぎ検出されるようになり、微量有害化学物質対策が環境政策の大きな課題になった(水道水のトリハロメタンやトリクロロエチレン等の地下水汚染など)。 なかでも八十年代半ばにはじまる廃棄物焼却施設からのダイオキシン騒ぎは、九十年代に入って本格化した。

筆者の考えでは、ダイオキシンのリスクは数多ある他の環境汚染物質のリスクと同程度かそれ以下であり、しかも一般環境中のダイオキシン濃度はこの二十年間減少傾向にあるから、それほど大騒ぎする必要ほどのものでないと評価している。そういう意味では、ダイオキシンを理由にしたごみ焼却場・産業廃棄物処分場反対運動は、非合理で情緒的なものと筆者は解する。 しかし、ダイオキシンパニックで一般廃棄物の中間処理、つまりごみ焼却場の新設に対する周辺住民の反対の声は大きくなったし、ダイオキシン対策のためのコストも馬鹿馬鹿しいほどかかるようになった。ダイオキシンパニックによる住民のエキセントリックな反対のために、法の要件を満たしていれば許可しなければならないにもかかわらず、県も安易に産廃処分場の許可ができなくなった。能勢事件(一九九八年)や所沢事件(一九九九年)をはじめとするダイオキシン騒動は加熱する一方で、環境ホルモン騒動がそれに輪をかけ、マスコミの扇動的な報道もおさまる気配はみせることなかった。産廃処分場の許可件数は一九九九年度までは毎年百件は越しているというのに二〇〇〇年度には一桁前後にまで激減。しかもその大半が自家処理場という。産廃の最終処分場の残余年数は三年、首都圏に至ってはわずか一年である。

政治・行政の世界は国民的パニックに対応せざるをえない。ごみ焼却場の規制強化を皮切りにダイオキシン規制が本格化、厚生省の焼却場大型集中化方針や文部省の学校焼却場自粛通達など愚劣な方針が出されたが、それではおさまらずついに政府はダイオキシン関係閣僚会議を設置。同会議は基本方針をだし、はじめて定量的なごみ減量化目標を定めるに至った。そしてダイオキシン法の議員立法が成立するなどダイオキシン規制はどんどん強化された。 こうした状況は否応なく産廃処理コストの高騰を加速させる。 またヨーロッパ輸出のためやむをえずはじまったISO一四00一取得も企業パフォーマンスに利用するようになり、猫も杓子も1SOの認証取得に走り出すと、単なるパフォーマンスにとどまらず実質的なものとして競争せざるをえなくなった。

こうしたダイオキシンをはじめとする化学物質問題への国民の不安感は高まる一方で、いまや企業秘密であるとして猛反対してきた産業界も環境報告書などで未規制物質の情報開示を行うところがでてきて、それがPRTR法制定につながった。 産業界も価格競争だけでなく、製品のエコ競争に勝たねば生き残ることがむつかしいような業界もでてきた。価格が高いにもかかわらず初のハイブリッドカー、プリウスが好調な売れ行きをみせているのがその象徴といえよう。 産廃減少・再利用=ゼロエミッションやリサイクル可能な製品作りに設計段階から取り組まなければならない状況が生まれてきたのはそうしたことから必然的といえる。 こんごはLCA((製品の誕生(資源採掘)から死(廃棄)までのすべての段階でどれだけの資源・エネルギーを投入し、環境負荷をかけているかをトータルで評価するシステム)も市民権を獲得することになろう。

家電リサイクル法(一九九八年)はさまざまな不備(処理費が消費者負担ということは不法投棄を誘発する)があるとはいえ、逆流通ルートの認知で容器包装リサイクル法より拡大生産者責任は強まった。

二〇〇〇年には循環基本法の他各種リサイクル法が制定され、現在ではクルマリサイクル法が検討されている。

こうしたなか、廃棄物行政はリサイクル行政と一体化し、また化学物質対策が個別公害部局にとどまらず、各局間の連携も強まり、環境管理行政と一体化していくなかで、ダイオキシンを媒介として厚生省の廃棄物行政との連携も強まっていった。そして二〇〇〇年の行政改革のなかで、環境省に取り込まれることになった。

しかしながら、これをもう少しミクロ的に見てみると、各種リサイクル法に関しては環境庁は一貫してカヤの外であったことがわかる。厚生省対各省の争いがあっても、そこに環境庁が関与しようとすると、押し返されるのが常であった。にもかかわらず、最終的には環境行政との統合が推し進められたのは、論理的整合性もさることながら、厚生省の廃棄物行政を担う技官が環境庁との「二重国籍」であったことが大きく影響していよう。

さて、こうした循環型社会への変化を決定付けたのはダイオキシンパニックである。いままでごみや産廃の処分場は用地の取得が比較的容易な農山村や郊外に押しつけてきたが、ツケを押しつけられた側の住民がダイオキシンをきっかけに反乱を起こしたと言っていいだろう(こうした構造はエネルギー、とりわけ原発設置をめぐる状況と酷似している)。

廃棄物処理がスムースにできなくなれば世の中は糞詰まりになるし、処理コストは高騰してしまうから、廃棄物の減量化に社会自体が移行せざるをえなくなってきた。廃棄物問題はもはやEnd of Pipe対応ではどうにもならなくなってきたのだ。 もちろんそうスムースに行くわけでない。企業にとって産廃処理価格は安ければ安いほどよく、割高でも優良な産廃処理業者に委託しようとするインセンテイブは市場原理からはまったく働かず、この不況で逆のベクトルが一層強く働くからである。したがって安価で請負い、手抜き処理をする悪質業者は跳梁跋扈するであろう。しかし、社会的信用を第一にする企業にとって基本的な流れはパフォーマンスではあれ環境重視である以上、産廃排出抑制に行かざるをえないと思われる。

同じく二〇〇〇年に自動車税制グリーン化が実施された。地球温暖化に関連しての炭素税についても前向きな検討がはじめられているし、一方一部の地方自治体では産廃税が検討されるなど、循環型社会への動きはますます加速されるであろう。 もっとも現在の循環型社会への動きは循環基本法の理念にもかかわらず、大量生産・大量消費自体の見直しにいたらず、大量リサイクルにとどまっている。こんごより上流側の対策に至るかどうかが問われている。

(三)アセスメントとミテイゲーション、そして公共事業批判の出現

ア ミテイゲーション

ミテイゲーションとは一般に開発に伴う環境影響の緩和措置であるが、米国で生まれた概念においては、開発に伴う環境影響をゼロにする(No-Net-Loss) ための手法であり、回避→低減→代償という優先順位で検討がなされるとされている。 日本においても、protected area内の開発に際しては、許可権限を背景に、断念せしめたり、規模を縮小せしめたり、容認する場合においても修景植栽のような環境影響を緩和する様々な措置を講じさせている。また、白地地域においても公的な大規模開発に際してはいわゆるアセスメントがなされており、その結果として環境影響緩和措置が組み込まれることになっている。 こうした観点からすると日本でも或る種のミテイゲーションが行われてきたことになるし、環境行政における自然保護政策とはprotected area内外におけるミテイゲーションであるとういう見方も可能である。

イ いわゆる白地地域でのミテイゲーションと環境アセスメント

protected area におけるミテイゲーションの展開は、一で述べたとおりであるが、法的権原があるが故に、或る意味では容易であった。 そうした位置づけがないいわゆる白地地域においては、「回避」→「低減」を優先的に検討するというミテイゲーションの展開はさまざまな困難をはらんでいる。ここでは広義の環境アセスメントとの関わりで考察を行う。 アセス法が挫折し、閣議アセスでもって長らく運用がなされた。閣議アセスは事業アセスであり、実質的には計画中止はおろか、アセス結果による計画変更(ミテイゲーション概念における「回避」または大幅な「低減」)も考えられず、アワスメントと酷評されてきた。判断基準としては環境基準(○×方式)が用いられ、一般的な環境保全対策(主として小さな「低減」=「軽減」)は講じられたが、アセス手続きの過程において「回避」や大幅な「低減」がなされた例はない。 しかしながら、それは環境保全の観点から「回避」や大幅な「低減」がまったくなされてこなかったことを意味しない。自然公園などのprotected area 以外であっても、環境の質が高くわざわざアセス調査を行うまでもなく、環境影響が巨大と予想され大規模な反対運動が起こることが予期される場合は、それなりの「回避」や「低減」が環境庁や自治体環境部局との調整の中でなされてもきた。しかし、それがどの程度行われてきたかは明らかでない。実質的な「回避」や大幅な「低減」は、日本の行政システムにおける密室での事前調整という慣行のなかでなされるためである。おおよその調整のメドがついた段階になってはじめて公表され、アセス手続きに入ることが多く、これらの事前調整過程が公開されることは少ない。事前調整が未了なうちに公表された場合、反対運動を惹起しつつ、結果的には「回避」や「低減」がなされることがある。そうした代表的な事例を表に掲げる。

こうした白地地域におけるアセスメント対象となる大規模開発についても、主として地方自治体の環境部局や環境庁との事前調整の中で、一定程度の「低減」や「代償」を組み込んだことは確かである。そして、その材料を与えたのは、自然環境保全基礎調査であった。その調査結果は直接に、或いは世間に公表することにより間接的に抑制効果を与えた。いわば自然環境保全基礎調査は開始後徐々にボデイブロウ効果をもたらせたのである。自然保護局はこの時期から結果的に白地地域の自然保護にも一定程度寄与しはじめたのである。こうした流れを加速したのは国際的な動向であり、国際NGOの圧力であった。 また、この時期、ほとんどの都道府県でアセス条例やアセス要綱が設置され、閣議アセスを補完した。

ウ 公共事業批判とアセスメント

バブル崩壊で迎えた九十年代、日本経済は一貫して低迷しつづけた。そのため景気対策として道路だ港湾だ空港だと毎年のように公共事業のための巨額の補正予算を組み(自然公園内の施設整備が一気に進み、各種の環境保全型―と称するー公共事業が大きく伸びたのも、そのせいである)、その財源として赤字国債・地方債を発行してきた。二〇〇一年度政府予算も三十兆円以上の国債を発行することにしている。コストパフォーマンスが合いそうもなければ、必要性に疑問を抱かざるを得ないような大型公共事業が九十年代になって目立つようになった。

しかし、こうした対策も大きな経済効果を呼ばず、やがて借金だけを増やすのみと酷評されるようになった。 一方、七〇年代なかばからの閣議アセスの積み上げと、ヨーロッパを中心とする国際社会での環境志向に影響され、先進国としては最後にアセス法が制定された。

もとより環境アセスメントは公共事業を否定するものでないし、所詮は環境によりよい空港や道路、港湾をつくるためのツールに過ぎない。しかし、アセス法は従来の閣議アセスより、いくつかの点で環境保全の観点からは前進した。ひとつは閣議アセスより早期にかつ広範な住民が意見を提出できるようになったことである。もうひとつは評価方法として従来の環境基準をクリアするかどうかだけでなく、環境配慮を可能なだけしたかどうかを問うミテイゲーション概念を導入したことである。さらに具体的には生物多様性からの評価と住民との触れ合いの場への評価を盛り込んだ。前者は食物連鎖の頂点にいる野生動物への影響を問題にしたのであるが、既存調査で唯一不明な点が多いのが猛禽類で、アセス調査の結果、区域内に営巣に確認ができ、事業計画の縮小や変更が余儀なくされる事態も出現してきた。また後者はいわゆる里山の保全のようなものも配慮しなければいけないことを意味している。

またアセスメントの実施時期が早まり、住民の意見をいう機会が増えた結果として、法が本来要求している環境上の観点よりも、むしろそうした公共事業がほんとうに必要なのかどうかに論点が移行し、過大な需要予測や財政上の問題点が追求されるようになり、住民不在の政策決定システムへの異議申し立てを誘発させることになった。長良川河口堰、藤前干潟、神戸空港や吉野川第十可動堰、中海干拓、諫早湾干拓など九〇年代から、今日に至るまで、公共事業批判がかつてなかったほど高まった。 そうしたなか先進的な自治体では、情報公開や政策決定に対する意見の公募や参加、政策評価システムの導入等が始まり、今日では中央省庁にまで波及したし、一方では分権化の流れの中で、地方分権法が制定され、各地で住民投票が実施にうつされるなど、行政システム・意思決定システム自体の見直しも始まっている。この九〇年代の流れはなお加速し、それを象徴するのが、長野県知事選での田中知事の登場と脱ダム宣言であった。

ここではケーススタデイとして筆者も関わった和歌山下津港沖埋立の経緯をざっとみてみることにする。ここに現代日本社会の抱えている問題点のさまざまな面が表れているからである。

エ ケーススタデイ: 和歌山下津港沖埋立計画の攻防

(埋立計画の経緯)
一九九七年八月、県地方港湾審議会で下津港沖地区を含む和歌山港の港湾計画変更が了承され公表された。まったくの抜き打ちで、市民住民には寝耳に水であった。

この目玉は下津港沖の一一七ヘクタールの埋立による大型貨物港湾整備である。埋立海域は港湾区域内で漁業権は放棄された水域であり、また当該水域自体は瀬戸内海国立公園の区域外であるが、同国立公園特別地域である雑賀崎に隣接している。 そのご地元説明会が行われたが、住民は納得せず、「雑賀崎地区連合自治会」と「雑賀崎の自然を守る会」を中心とする激しい反対運動がはじまった(この二つの団体はずっと共同歩調をとるつづけてきたので以下「連合自治会・守る会」と略す)。まったくの抜き打ちであり、隣接する瀬戸内海国立公園特別地域の万葉集にもうたわれた景勝地で、展望地点としても有名な雑賀崎からの眺望を台無しにするとの理由であった。「連合自治会・守る会」は、署名活動や環境庁等への反対陳情等多様な反対運動を展開していった。こういう大規模開発においては、反対派だけでなく推進派の住民も登場するのがふつうであるが、本事案では賛成・推進を標榜する住民が最後まで登場しなかったことにも留意する必要があろう。

こうした大きな開発計画は県庁内部で環境部局と協議を了し、内々に環境部局を通して環境庁にも事前調整を図りつつ手続きを開始するし、同時並行的に地元自治会などにも内々の根回しをしていくのが通常の日本型行政スタイルであるが、本件に関してはまったく異色の展開をたどった。すなわち港湾部局が独自に計画し、環境部局との調整は不良に終わったままで、また環境部局を通して情報をえた環境庁も難色を示していたものであるが、港湾部局が強引に知事の了承を取り付けてほとんど根回しもせずに地方港湾審議会まで独走したものである。なお、埋立材には建設発生土や建設廃材を活用するとしており、処分場不足に頭を悩ませていた環境部局内部では期待する向きもあったらしい。

本件は「連合自治会・守る会」が反対運動をつづけるなか、一九九七年一一月国の港湾審議会に諮られた。その場において環境庁は本案は景観に与える影響は大きく、瀬戸内海環境保全特別措置法(以下「瀬戸内法」と略す)に違背するとの見解を示した。港湾計画の変更は下津港沖地区にかかるもののみでなかったため、結局「原案のとおり、おおむね適当である。但し、雑賀崎前面の埋立計画については、瀬戸内海国立公園の特別地域に隣接していることから、景観の保全についてさらに検討されたい」という答申がだされた。

県は一九九八年度に入って、学識者による「和歌山県下津港沖地区景観検討委員会」(以下、景観委員会と略す)を設置、その意見を踏まえて景観保全の観点から当初案に修正を加えて再度県地方港湾審議会、港湾審議会に諮ることとした。 学識者は港湾部局が四名、環境部局が二名推薦することにし発足した。筆者もその一名である。なお、委員長は地方港湾審議会長でもあった。「連合自治会・守る会」は景観委員会メンバーに住民代表の参加を要求したが、県は拒否。県は当初報道機関以外の傍聴も拒否したが、のちに傍聴は認めた。

同年六月、景観委員会は一部委員(筆者)の反対を押し切って、面積を一部縮小し、眺望地点から一定の角度内に埋立区域をおさめれば、景観への影響は大きく軽減され容認されるという第二次案を暗示する結論を出し、地方港湾審議会への事情説明を行ったあと、第二次案でもって環境庁への意向打診を行ったが、環境庁は容認しがたいという態度を堅持した。 同年秋に入り、県は環境庁の意向を配慮し、さらに大幅な縮小計画を立てるということに方針変更。埋立面積を七五ヘクタールと三分の二に縮小し、北へ位置をずらした第三次案を十月の景観委員会に提示し、一定の評価をえた。しかし、質疑のなかで「将来ともこれ以上の沖出しはしないということか」という委員からの質問に対して「今回は計画しないだけで、将来とも計画しないとはいえない」と港湾部局が答弁したため、「連合自治会・守る会」は一層態度を硬化させた。

九九年一月和歌山市長選が行われた。新市長は「連合自治会・守る会」の動きやマスコミの論調を配慮してか、埋立自体を否定しないが本水域でなく北港地区で計画すべきだという態度を示していたため、年度内は県も身動きがとれず、景観委員会も開催されなかった。

なお、この時点ではすでに「連合自治会・守る会」は単なる縮小でなく、白紙撤回を求めるようになっていた。単に景観破壊にとどまらず、港湾整備の必要性なるものが、あまりに非現実的な需要予測からくるものであるとし、またこの間の港湾部局の対応に徹底的に不信の念を抱くようになっていたし、景観委員会の審議の進め方にも異論を唱え、個々の委員に対しても批判の矢を放っており、公開質問状を出すなどの活動を展開した。また吉野川第十可動堰や神戸空港に反対する住民組織との連携もとるようになっていた。ちなみに徳島市で第十可動堰について住民投票が行われ、反対が圧倒的多数を占めたのは九九年一月である。 年度が変わり、市長が態度を急変、第三次案の西南隅を一ヘクタールさらにカットすること(第四次案)を条件に県の説得を受け入れた。そして五月、七四ヘクタールまで縮小した第四次案を県は景観委員会に示し、筆者を除く委員は了承し、景観検討委員会は幕を下ろした。

本案で地方港湾審議会を経て、七月、国の港湾審議会に再度諮られた。今回は環境庁も異議を唱えず、「原案のとおり適当である。なお、事業の実施にあたっては、緑地の設計、護岸の構造等について検討し、修景効果に配慮するとともに、地元関係者の理解が得られるよう、さらに努められたい」との答申が出された。なお、本答申に際して地方港湾審議会においては、異例の採決が行われたし、国の審議会においても答申に「なお書き」が付されたのは、「連合自治会・守る会」の審議会委員に対する猛烈な情宣が一定の効を奏したのであろう。

これで港湾計画変更という第一段階は突破、ひきつづいて公有水面埋立法免許出願のためのアセスメント調査に入る予定で調査費を’二〇〇〇年度予算に盛り込んだ。一方、「連合自治会・守る会」は支出差し止め提訴で対抗した。

(埋立凍結への転換と原因)
そうしたなか、年度が変わって事態は急変することになる。和歌山市長が突如埋立自体に慎重な姿勢に逆戻りした。一方、県の方でも計画推進の立場を崩さなかった知事が病気で引退し、同年九月知事選が行われた。新知事は当初明確な態度を示さなかったが、十月の県会でアセス調査の執行停止を表明、ついに事実上の凍結宣言を行ったのである。まだ完全に白紙撤回されたわけではないが、こうして事態は急変。「連合自治会・守る会」の勝利に終わった。

問題は市長、知事がなぜ方針変更を余儀なくされたかである。それは「連合自治会・守る会」の粘り強い反対運動に加えて、全国的に大型公共事業反対運動が各地で多発し、マスコミに代表される世論もそれを支持する側に回ったということ、そしてもはや自治体においても、過大な需要予測による大型公共投資の財政負担に耐えられないことが明確になってきたことがあげられる。その象徴的な表れが、同年七月の衆院選での自民党の都市部での惨敗である。これが地方への公共事業バラマキに対する都市住民の反発であると自民党は分析し、パフォーマンスとして大型公共事業見直しをいいだし、同年八月、その象徴として吉野川第十可動堰計画の白紙撤回や中海干拓の中止を勧告するに至った。こういう時代の転回に首長は敏感たらざるをえなかったのであろう。

(「埋立の基本方針」の限界)
さて、環境庁が港湾審の場で異議を唱えて港湾計画の改定自体が差し戻されたのは、筆者の知る限り過去三回で、きわめて異例のことである。もちろん、従来の日本型ルールでの事前調整を行ってこなかったケース自体がまれなのであるが、この異議を唱えた三回すべてが瀬戸内海がらみである。このことは瀬戸内法や瀬戸内海環境保全審議会の答申である「埋立の基本方針」の前文(「埋め立ては厳に抑制すべし」)の存在なしには考えられないであろう。

しかし、同時に「埋立の基本方針」があっても、なおミテイゲーション概念で言う「回避」でなく、ほとんどの案件が「低減」どまり(それもNo Net Loss原則抜きの)なのかという疑念も同時に湧いてくるし、筆者も関わった下津港沖の案件を通して、瀬戸内法行政のみならず、環境庁、或いは日本型行政システムの問題点も見えてくる。

ひとつは環境庁、現・環境省の権原の弱さである。もし、当該水域が国立公園であったなら自然公園法の規定による拒否権の発動を背景により厳しい対応が可能であったかもしれない(ただし、国立公園の海域は通常いわゆる普通地域である。普通地域では埋立は要届出事項であって、要許可行為でないが、法文上は「風景の保護に必要な限度において、当該行為を禁止」することができることになっている。発動された例もなく、実際の発動は困難と思われるが、これを背景により強く指導することは可能であったろう)。「埋立の基本方針」は法に一応根拠条文を持っているものの、本件に関しては「基本方針」の本文に直接違背するというよりは、「厳に抑制すべし」という前文の精神に反するものであるというしかなく、法文上の権原とはいいがたい。

もうひとつは公益上の必要性の判断主体の問題である。常識的には妥当と思えない過大な需要予測に基づく開発であったとしても、需要予測の妥当性、開発の必要性を判断するのは環境庁でなく、港湾整備の場合は運輸省であるし、自治体においては港湾部局であり、最終的には首長である。

したがって、公的な場で環境庁が発言できるのは環境保全上の観点からでしかないことが挙げられる。「当該事業は港湾整備、地域振興の観点から必要かもしれないが、或いは必要だとしても、環境保全上の観点からは到底容認しえない」という見解を示すには、国立公園の中核部のような、それなりの法文上の権原を必要とするのである。したがって、港湾審議会でも環境庁は環境保全、景観保全の観点からのみでしか異議を唱えられなかった。かくて、和歌山下津港沖のケースにおいても景観委員会の所掌範囲は景観保全の観点からに限られたのである。埋立の必要性ないし地元住民との合意形成の方法等についての発言は「本委員会の権限の範囲外ではあろうが」とか「本来は港湾審議会の場で議論されるべきであろうが」という前置きが必要とされた。 また、審議会や委員会の人選と運営の問題がある。メンバーを選ぶのは計画・事業主体である以上、その大半は自分たちに都合のいい学識者を選ぶであろうし、さらには運営の仕方も事務局の出した資料や原案に対してコメントを述べるというやりかたであるから、委員会自体で議論して独自の案を出せるという仕組みに通常なっていないという点にも問題があろう。

そういう意味では和歌山下津港沖の件に関して、結局の所勝負を決したのは、環境行政でなく、首長であり、その判断を左右したのは「連合自治会・守る会」の活動に象徴される市民住民の動向であり、世論であったといっていいであろうし、そのこと自体は正当であるが、従来の公共事業の多くは形式はともかく実質としてそういう風になっていないところに問題がある。ここに住民投票が各地で提起される根源がある。

(三)日本型行政の構造改革―他省庁の環境志向型行政への転換

一般にprotected area であれ、公害規制であれ、環境規制の強化に事業官庁、開発官庁、経済官庁は消極的であるばかりでなく、激しい抵抗を示すのがふつうである。世論、マスコミ等の包囲網の中で受け入れざるをえないときも、覚書等でできるだけ骨抜きにするし、環境庁もそれを受け入れざるをえないのが通常である。したがってマスコミ等では日本の行政施策は生ぬるいことしかしていないように思える。鳴り物入りで登場した「環境基本法」も「循環型社会形成推進基本法」も「お経の文句」に過ぎず、そのもとにある個別法は旧態依然とした行政指導を根拠づけるていどのことしか規定していないのが実状である。

しかし、筆者はこれこそが日本流の構造改革であり、ボデイブロウのようにじわじわと効いてくることは間違いないと思われる。ただし、そのスピードが許される状況かどうかこそが問題である。その構造改革の内的論理はつぎのようになる。

  1. 外圧を利用しての「お経の文句」の公認化
  2. 各省の従前の構造・権益を維持したままでの「お経の文句」への統合
  3. 権限・組織・予算の拡大を至上命題とする、各省の「お経の文句」を謳い文句にした政策への傾斜
  4. 各省の権益、力関係は不変のまま環境重視の構造改革

九十年代、環境基本法制定以降の各省のリサイクル政策への転換や、アセスメントへの対応、河川法や海岸法の目的規定の変更、環境保全型の各種事業の導入等はその現れであろう。こんご税制グリーン化やエネルギー政策もそうした道を辿ると思われるし、いまもっともホットな話題である道路特定財源見直しも、環境重視の方向でケリがつくことはまちがいないと思われるが、そのことは環境省の期待とはうらはらに環境省の権限の拡大にはストレートには結びつかないであろう。

(四)環境行政における地方自治体の役割

日韓両国における環境行政の酷似性にもかかわらず、大きなちがいは地方自治体の役割である。李進、原嶋洋二らの先行研究(先述)でも指摘しているとおり、環境行政において日本では地方自治体の役割は無視できないほど大きい。それは政府の環境政策の実施部隊であるというだけでなく、先駆的な取り組みでしばしば環境行政を領導した。或る意味では地方自治体が政府に環境庁を創設せしめたという評価も可能であろう。 なお、地方自治体は都道府県―市町村の二層構造をもつが、本節では主として都道府県行政を対象とする。

ア 地方分権の波

その日本においても今日地方自治体と中央政府との関係は流動化しつつある。地方分権の声が大きくなるなか、地方分権法が施行され、かつての固有事務は自治事務と呼ばれるようになった。機関委任事務は廃止され、国が行う事務のうち地方自治体に委託されるものは法令受託事務とされた。このように地方自治体の権限は見掛け上大きくなったが、税制、財政その他の地方委譲が進まず、地方分権はなお形式だけにとどまっている。

しかし、都道府県・政令指定市レベルでは、かつてのいわゆる「革新自治体」とは別の流れの中で中央政府から相対的に距離を置き、独自の姿勢を模索するところがかなり出現している。  また住民も政府からカネを取ってくる開発志向首長が有能な首長であるというかつての観念から脱皮しつつある。多くの地方自治体が開発のための地方債の乱発による財政赤字に苦しんでることが、明らかになり、これまでのやり方ではやっていけないということに気付いたからであろう。それを端的に示したのが、二〇〇〇年の長野知事選であり、二〇〇一年の「聖域なき構造改革」を旗印にした小泉内閣の出現であった。

イ 地方自治体における環境行政

日本の中央政府の特徴は、「省あって政府なし」としばしばいわれるように、各省の独立性が高いことである。人事権も基本的には採用省に属するし、トップに立つ大臣は通常一、二年以内で変わってしまうため、大臣への忠誠心も希薄なことである。 そういう意味では地方自治体の特徴は公選制の首長の元、各部局の独立性が弱いことである。したがって自治体内部における知事の権威は省庁内部の大臣の権威より格段に高いのが通常である。ただし、各部局は知事の指揮下にあるとともに、それぞれの「上級」官庁に有形無形の指導を受けざるをえない。

この構造は従前、地方自治体が本来の意味の自治体であると同時に、露骨にいえば中央政府の下級ないし代行機関であるという地方自治法自体に根拠を持っており、さらに財政(補助金、地方交付税交付金、地方債発行許可)や、財政と許認可権をバックに主要部局の長をはじめとする幹部職員を中央省庁からの出向組で占めているという人事システムがそれを補完してきた。 一方、中央政府においては、他省庁の権限を犯したり競合したりするおそれのある新規施策を取るのは容易でなく、想像を絶するエネルギーを要するが、地方自治体においては住民の圧力とトップの意向を受け独自の先進的施策を行うことは中央政府にくらべ比較的容易である。

したがって開発志向時代、或いは開発志向の強い首長のもとの環境部局はしばしば「板挟み」の立場にたつが、住民の圧力と、知事のやる気次第で、先進的な環境政策を中央政府に先行して行ってもきた。

(前史時代―環境庁草創期まで)
公害、環境管理行政に関して言うと、周知のように、公害防止条例、公害防止協定といった政策やいちはやく公害担当組織を設置したのは、先進的な(というか顕著な公害被害を受けた)自治体であり、そうした自治体の包囲網が政府に公害対策基本法を作らせ、環境庁を設置させたし、その動きに後発自治体もほぼ右へ習えした。先発自治体においては組織の発達も条例等の制定も前史時代が長く、後発自治体においては国や先進自治体の動向をみて一気呵成に終えたという感が強い。なお、後発自治体においては化学、衛生工学系の専門技術職の採用をそれまでしておらず、急遽他の技術分野職員(獣医、薬学等)を充てるとともに、この時期から専門技術職の採用をはじめたケースが多い。

公害行政においては都道府県は、公害規制諸法の規制事務(届出、取り締まり)や監視業務を行うとともに上乗せ等のかなりの権限を持っている。先進的な都道府県にそれだけの組織と能力が備わっていたことと、一方では公害規制諸法制定過程で、他省庁が環境庁に直接権限を持たせたくなかったことの反映という面もあると推察される。そういう意味では、環境庁の人的、財政的なヒモも小さく、さまざまな<指導>を環境庁が行うことなく、基本的には都道府県レベルおよび大都市においては自律した公害・環境管理行政を展開しえたが、政府における環境庁の立場と同様、地方自治体においても環境部局は立地、土地利用施策そのものには関与できないという限界があった。

大阪府と鹿児島県の例でいうと、次表のようになる。(官行物資料により筆者作成)

自然公園に関してはやや事情は異なる。自然公園行政は多くの自治体では商工部観光課の一ないし二係で、許認可や施設整備を担当していたし、補佐・係長の実務担当レベルでは厚生省国立公園部からの出向も多くみられた。許認可に関しては極端なもの以外は融和的で、それが地元の総意であり、トップの意向である限りにおいて、むしろ国立公園部にとりなすというところが多く、自然保護運動への対応は鈍かった。このことは多くの自然保護運動が地域住民のものでなかったことの反映であろう(厚生省自体も一定程度観光開発を公園利用の促進として容認)。一方では国立公園の管理は国の責務とされていたにもかかわらず国立公園部と一体になって公園管理に当たっていた。環境庁および自治体内環境部局の設立に伴い、許認可はほぼすべての自治体において環境部局に移行したが、施設整備はそのまま観光課で担当することにした自治体が現在でもかなりの数にのぼる。   また、厚生省所管行政ではあるが、廃棄物行政(主として産廃の許可)は新設された環境部局で担当した。

(七十年代なかばから八十年代:環境行政停滞期ないし雌伏期)
狭義の公害行政に関しては、多くのルーチンワークがあり、自治体にあっては停滞期というより定着安定期であった。しかし、環境管理とか企画部門に関しては環境庁同様雌伏を強いられた。しかし、先進自治体においては、環境アセスや環境管理計画など環境庁に先行した政策を打ち出したし、後発自治体においても事情は同様であった。

この時期の後半、中曽根内閣時代に行政改革を打ち出し、多くの自治体でも組織の統廃合を行った。その結果、環境部局が他の部局と統合、独立部局でなくなった自治体も多い。このこと自体、定員削減や環境規制緩和など直接的な環境行政へのマイナス効果はなかったが、士気阻喪の面がなかったとはいえない。なお、この時期は産廃問題が都道府県環境行政に、一般廃棄物の最終処分場の逼迫問題や財政圧迫問題が市町村環境行政に大きな比重を占めるようになってきた。次表は大阪府と鹿児島県の例である。(官行物資料に基づき筆者作成)

また、自然保護・自然公園行政に関していえば、審査指針の制定で、許認可行政はルーチン化し、公園計画見直しの実務を自然公園許認可担当係か実体的に担ったが、全般的な環境ブームの後退のなかで難航した。また、県立自然公園のみならず、なんらかの形で自然保護に関する独自地域や制度を設けた自治体も多いが、多分にパフォーマンス的であった。 さらに、厚生省時代には当たり前だった、補佐・係長レベルの実務担当の環境庁からの出向はなくなった。環境庁になってからは、他省庁と横並びのポスト以外は派遣に難色を示したし、自治体ではそこまでして受け入れるメリットは少なかったからである。

(九〇年代)
九〇年代に入って、地方自治体では、環境基本条例、県環境基本計画、アセス条例等 環境庁の動向にほぼ即して動いている。しかし、自治体内部での力関係もあってパフォーマンスの域をでないところも多く、自治体間の温度差も大きい。温暖化対策も同様である。

九十年代半ばからは、地方自治体では、かつての革新自治体とは別の文脈で、トップが中央政府との距離をとる自治体が出現してきた。交付税不交付団体である石原東京都知事が打ち出した各種の環境政策がそうであるが、それ以前から中央政府とのパイプの太さを誇示するのでなく政策評価システムだとか、各種の開発・大型公共事業に懐疑的な姿勢をとるトップが出現。二〇〇〇年には長野県知事が脱ダム宣言が記憶に新しい。

また、こんごは先進的な自治体では公共事業見直しの流れの中で、政策評価や住民参加、戦略的環境アセスといった環境と経済との統合を図る動きが予想され、一部では実施されだした。また、産廃税などの動きもある。中央省庁統廃合の動きの中で、自治体でも行革が行われたが、基本的には統廃合に留まったし、環境部局の独立性は弱まったかの感もある。しかし、組織はともかく、政策面ではこんごは環境部局の重要性が増すことになろう。

大阪府と鹿児島県の例を上に示す(官行物資料に基づき筆者作成)。

また、白地地域への関与は条例アセス以外ほとんどなされていない。こんごこの部分がさまざまな形で強化されるのではないだろうか。かつて多く見られ今日も見られるハコモノ行政から如何にアイデア勝負のソフト行政に切り替えていくかが求められていよう。

一方、自然公園行政では大きな変化があった。環境庁の現地管理体制も充実整備され、地方分権、行政改革の流れの中で、国立公園の管理は環境省が、国定公園の管理は都道府県で行うという法の建前どおりの運用がなされるようになった。具体的には軽易な許可への県知事委任を定めた施行規則が廃止された。従来慣例となっていた環境庁権限事項に対する都道府県の受理進達および直轄事業の施工委任も押し付けから選択制(直轄施工の導入)にと変わり、都道府県の対応はふたつに割れた。また国定公園の管理については従来は通達で実質的に環境庁も関与してきたが、大幅に関与の度合は減少した。

なお、この時期、廃棄物政策に関して、住民の不満が爆発するなかで、やむなく組織拡大を図る自治体が増えた。そして、抜本的な減量政策や拡大事業者責任の導入を厚生省に要求しだした。それが廃棄物処理法の数次にわたる改正や各種リサイクル法制をもたらし、ついには廃棄物行政の環境庁行政との統合と環境省への昇格が実現した。

ウ 韓国の地方自治

韓国では一九四九年に地方自治法が制定されたものも、朝鮮戦争が勃発するなかで地方自治の実施は延期された。一九五二年に初の地方議会選挙が行われ地方自治がスタートしたものの、それが成熟する以前の一九六一年の軍事革命で地方議会が解散された。以降、地方自治体は存するものの、それは地方自治制度でなく政府による地方行政制度であった。しかし、いわゆる「開発独裁」のもと、日本における朝鮮特需に対比しうるベトナム特需をきっかけに急速な経済成長を達成。かつての日本以上の急激な都市化・脱第一次産業化が進展するなかで、民主化を望む世論は急速に大きくなった。一九八七年には憲法の地方自治実施に関する留保項目がなくなり、一九八八年には地方自治法が全面改正、これにもとづき一九九一年には地方議員選挙が実施、一九九五年には首長選挙も実施され、地方自治が本格的に胎動しはじめた。しかし、財政と権限の両面、さらには人材の不足もあり、環境政策に関しての地方自治体の役割はいまだ小さく、かなりの部分は環境部の出先機関である地方環境管理庁に負っている。(この段落に関しては「日韓環境行政の比較」(金世徳 一九九〇 関西学院大学大学院総合政策研究科修士論文)に負うところが多い)

こうしたなかで韓国は一九九六年にOECD加盟を果たし、「離陸」した。こんご環境行政における地方自治体の役割が大きくなるものと思われ、その意味でも日本における地方自治体の環境行政の経験が生かされることを望みたい。

四 総括

日本の行政組織は、みずからの組織自体の維持拡大、すなわち予算、権限、人員の絶えざる増大を目的とする。そしてその構成員はそのことが社会的正義に合致すると信じている。日本の環境庁もその例外でない。したがって当初の二つの政策課題「すぐれた自然の保護」と「公害の未然防止」が一定程度果たされたあとも、前者はさらなるprotected areaの拡大強化とprotected area以外への権原の拡大を求める性向を有しているし、後者は個別公害の発生源対策からより上流側の対策、立地規制、産業構造・エネルギー政策と、生活の環境質の向上までを視野に入れた対策への関与を希求する。もちろん他省庁、産業界の抵抗、他方では政治・財政の締め付けのなかで、そうした拡大は容易に果たされるわけがないが、しかし、環境庁行政に限って言えば、こうした拡大強化の方向には正当性があったと思われる。

都市化、脱第一次産業化が、終戦以降一貫してつづき、そのことが六十年代半ばまでに都市部やその周辺部で産業公害を顕在化させ、過剰な公園内観光開発を招いたのであるが、それは人間と自然との関係における全面的な変容のうちのごく一部でしかなかった。

いまその全面的な変容を展開する余裕はないが、1. エネルギー転換による薪炭の放棄、里山の宅地化など身近な自然がどんどん失われていったこと。 2. 農山村部における機械化・大規模造林と後年の放棄による森林劣化 3. ライフスタイルの近代化、都市化に伴う廃棄物問題、クルマ社会化に伴う都市生活型公害。化学物質問題 4. し尿、生ごみの廃物化等循環型社会の崩壊 などという形であらわれた。

これらは総じて、自然共生型生活と生活共生型自然を喪失し、かつての資源制約からくる循環型社会が、総体として急激な勢いで崩壊していった過程であったという見方も可能であろうし、今日の主要な環境問題はここに根を持っている。産業公害やすぐれた自然の破壊はそうしたなかの極端な病理現象であって、一九七五年頃までの環境行政はこの病理現象の解決を政策課題とし、それを曲がりなりにも達成したと評価しえよう。

しかしそれにとどまらず、こうした人間と自然との関係を根底から問い直そうという動きが全世界的にでてきたし、環境庁の目指した方向性はそれに合致していた。そうしたより根源的な環境問題が行政内部で意識され始めたのが「環境行政冬の時代」であり、それが具体的な行政課題として提起され、環境政策のパラダイムシフトをもたらせたのが、九〇年代からであったと評価され、環境省となったこれからも変容をつづけていくものと思われる。

ちなみに二〇〇一年に成立した小泉内閣は「聖域なき構造改革」を掲げ、多くの支持をえた。それがなされるかどうか未知数であるが、構造改革なくして景気回復なし、すなわち構造改革により自国の永続的なGDPの増加を目指すということには、こうした人間と自然との関係を根底から問い直すという観点から疑義が残るといわざるをえない。

また、日本と韓国の対比は、或る意味では日本国内の環境先進自治体と後発自治体の対比に似た側面を持っているかもしれない。そういう意味でも前節で大阪府と鹿児島県の対比を試みた。

さいごに

事実関係に関しては筆者が主に用いたのは巻末の参考文献に掲げたもののうちの官製資料であるが、そこに掲げてある事実や事象の解釈については、筆者の在職中の経験や直感的判断、在職中、或いは退官後の先輩、同僚、後輩との忌憚ない意見と情報の交換から醸成されたものであるが、或る意味では筆者の独断と偏見であり、そうした意味では本論文は研究論文の範疇からは大きく外れるものであろう。しかし、アカデミックな立場からする政策研究とか政策科学と称するものは、現場の行政官からするとどこかピント外れの感が拭えなかったのも事実である。そうした意味で、本論文が一石を投じることができれば幸いである。 筆者は韓国についてはまったく無知であった。そんな筆者に韓国関係の資料や情報を提供していただいたのは当時の環境庁本庁の中島慶二(現・長崎県自然保護課長)、吉中厚祐(現・環境省自然環境計画課)、中沢圭一(現・中部地区自然保護事務所)、中尾文子(現・GEF)の各氏であり、また中沢氏の尽力で、訪韓し、韓国環境部自然保全局自然政策課の羅貞均(NA Jung Kyun) 氏にインタビューすることもできた。前・関西学院大学大学院総合政策研究科の金世徳氏(神戸大学大学院研究生)には、韓国の行政事情について教示をいただいた。

以上の諸氏のおかげで、韓国の環境行政のおぼろげながら概要を知ることができた。このことにより、日本環境庁行政の特質と問題点がより鮮明に見えてきたような気がする。 塚本瑞天氏(鹿児島県環境保護課長)には鹿児島県関係の資料を提供していただいた。また塚本氏と山村充氏(姫路工業大学 元・環境庁)には、本論文の素稿を通読のうえ、適切なコメントを戴いた。 以上の諸氏に深く感謝するとともに、本論文を書く機会を与えていただいた服部民夫先生(同志社大学社会学部)と(財)日韓交流基金に厚くお礼を申し上げる。

参考文献

  1. 「環境庁十年史」 一九八二年 環境庁 非売品
  2. 「環境庁二十年史」 一九九一年 環境庁 非売品
  3. 「自然保護行政のあゆみ」 一九八一年 環境庁自然保護局 第一法規
  4. 「環境白書」 環境庁編 大蔵省印刷局発行 毎年度
  5. 「鹿児島県環境白書」 鹿児島県 非売品 毎年度
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  7. 「日本の行政システムにおけるミテイゲーション」中島慶二、久野武 二〇〇〇年 (平成一一年度科学研究費補助金基盤研究報告書「日本におけるミテイゲーションバンキングのフィジビリテイに関する研究」(非売品)の一部として収録)
  8. 「瀬戸内海環境保全行政の史的総括と今後の発展のためのモニタリングとデータベース整備のあり方に関する研究」久野武 二〇〇一年 平成一二年度国立環境研究所委託業務報告書 非売品
  9. 「日韓環境行政の比較」 二〇〇〇 金世徳 関西学院大学総合政策研究科修士論文
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