環境漫才への招待

'80年代半ばの鹿児島県環境行政―南九研設立五周年を祝して

なんども繰り返し書いてきたように、90年代から環境行政は大きく様変わりし、そしていまも変わりつつある。いや、環境行政のみでない、その他のさまざまなコンセプトというかパラダイムというかがすべてそうである。国内では55年体制、国際的には米ソ冷戦構造といった戦後社会を規定していた構造はひっくりかえり、そしてバブル崩壊。だが新たな海図はいまだ出現していない。しかし、かつてのやり方の延長線上に未来はないことはほとんどの人が直感している。そのことを劇的に証明したのが、小泉内閣の出現であろう。だが、小泉内閣自身なにがやりたいのか、なにができるのか、いまだ見えてこない。

そうしたバブル崩壊以降の<失われた十年>の半ばに、浄化槽や廃棄物といったいわゆる静脈産業にかかる行政と業界の適正化、健全化という視点から地域と日本の未来を見据えて、南九研は船出をはじめた。そして今年で五周年を迎えた。いまや循環型社会形成の必要性を疑う人はいない。桑畑船長の舵取りにいささかの狂いもなかったのである。今後とも的確な舵取りで、盛大に十周年が迎えられる日が来ることを祈ってやまない。

今回は筆者が鹿児島県で桑畑さんの指導と薫陶を受けていた頃の思い出のいくつかを話したい。守秘義務の問題もあろうが、もはや時効とさせてもらう。それを通してバブル崩壊前夜の自治体環境行政のいくつかの側面を読者が抽出していただければ望外の幸せである。

(赴任まで)

周知のように自治体の幹部には中央省庁の出向組がずらっと顔を揃えている。もちろん鹿児島県もそうである。このことの功罪はいまは問わないが、当時鹿児島県ではというか、ほとんどの県では環境庁(現・環境省)からの出向は受け入れていなかった。予算も権限もほとんどない環境庁の人間を受け入れるメリットはほとんどないという当然至極な政治的な判断だったのだろう。

さて、昭和59年当時桑畑さんは環境管理課長の重責にあった。やっかいな産廃問題に自然公園の許認可問題、環境アセス、それに水俣病対応ときわめて幅広い所掌業務を抱え、如何に有能な桑畑さんといえどもひとりですべてを見るのは困難な状況にあった。そこでなんとか環境庁から職員を迎えたいと思われ、県の上層部に直談判されたと聞く。上層部の対応は冷ややかで、天下りを受け入れると生え抜きの職員の士気にかかわるとまで言われたらしいが(言った本人はパリパリの天下りである!)そこを強引に突破された。つぎは環境庁との折衝である。環境庁の方は在任中に課長ポストへの昇進を保証しろと言ったようだが、桑畑さんのえらいのは「人と仕事を見て、優秀ならばそうする」といい、安易な言質を与えなかったことである。というわけでふつうは部局長クラスのやるべきことをほとんどひとりでこなされた。

そういうことで昭和59年5月、筆者が突如環境局環境管理課の「環境管理監」という自然保護担当の新設ポストで赴任することになったが、さすがの豪胆な桑畑さんもどんな人間が来るのか不安だったのだろうとは想像に難くない。

(失敗二連発)

さて、そんな桑畑さんの期待を担って着任した筆者だったが、着任早々大きなチョンボを二つ重ねた。

最初は全国植樹祭のときである。着任後、半月も経たないうちに全国植樹祭が開催され、環境庁の事務次官が鹿児島にやってきた。当時はまだ接待文化華やかなりし頃だから、当然夜は知事招宴となる。筆者は環境庁からの出向だというので、その席に連なった。まだ県の幹部の顔と名前も知らないなかでの、初宴席だから緊張してピリピリである。隣の県幹部らしき人がそう緊張せずに飲みなさいよと、酒を注いでくれる。筆者の悪い癖はアルコールが一定量以上摂取すると、ときとして(いつもではない)パタンキューとところかまわず寝てしまうことがあることである。これをしょっぱなにやってしまった。なんと次官と知事に足を向けてグーグーと寝てしまったのである。あとで聞くと、隣の県幹部は副知事だった。

もうひとつはその一月後のことである。児童の巣箱づくりかなにかのコンクールの表彰式に環境局長の名代として出席、あいさつのあと、表彰状を授与する段になった。人の名前はときとしてむつかしいことがあるから、表彰相手にはちゃんと振り仮名を事務方がつけてくれたのだが、表彰状を読み上げはじめて最後「鹿児島県知事 鎌田・・・」で詰まってしまった。鎌田要人の「要人」をカナメと読むと知らなかったのである。のちに児童の父母からそのことが局長に伝わり、たちまち局内の話題になった。

この二件、ときおり飲んだ折に、局長からチクリチクリと冷やかされ、そのたび慙愧の思いに耐えなかったが、桑畑さんは仕事の本線ではないからと思われたのか、最後まで一言もおっしゃらなかったことには感謝している。

(志布志湾石油備蓄基地アセスメントをめぐって)

着任当時、志布志湾備蓄基地埋立問題が大詰めを迎えていた。もう※実質的なゴーサインは出ていたのでアセスが行われていた(従来の日本型システムでは実質的なゴーサインがでてはじめて環境アセスにかかるのが一般的である)。

※志布志湾岸を埋め立て大コンビナートにするという「新大隈開発計画」は大きな反対運動に逢い地元が二分、北の「むつ小川原」と並ぶ大問題になった。国定公園でもあったため環境庁も難色を示し、そのご計画は縮小を重ね、具体的なプロジェクトとして最後に残った志布志湾南端の石油備蓄基地構想をどうするかが焦点になった。結局出島方式を県が提案、それを環境庁が「検討に値する」と言明することにより、事実上のゴーサインがでた。なお、国定公園でなかった「むつ小川原」は強い反対を押し切って当初計画どおり着工したが、そのごの経済情勢の変化でいまやペンペン草が生え、膨大な借金だけが残った。多分、当初計画どおりだったら志布志も同じ轍を踏んだことはまちがいがない。

手続き的には事業主体である県知事が環境アセスメントを行ったうえで、公有水面埋立法に基づき、免許権者である県知事に免許出願を行う。免許権者たる知事は免許をおろすに際しては運輸大臣の認可が必要となる。認可申請を受けた運輸大臣は認可前に環境庁長官の意見を聞くということになっている。そして環境庁長官の意見を聞く段階に入っていたのである。

さて長官の意見を聞くということの具体的な中身は以下のとおりである。

アセスメント結果(「アセス図書」)の内容を環境庁の審査官(課長補佐クラスで、窓口課の他、各局にいる)が逐一チエックして、さまざまな質問を運輸省に投げかける。第一次質問では通常数百問に及ぶ。運輸省はそれに逐一回答するのだが、実際に回答案を作成するのは事業主体、計画主体すなわち自治体であり、運輸省の担当はいわばメッセンジャーボーイということになる。その回答に対してまた環境庁側が質問するという形で通常三次質問・回答ぐらいで事務的には手打ちになる。この質問・回答は非公式なメモの往復で、二、三ヶ月かかるのがふつうである。これは単純に疑問な点を聞くというだけでなく、公式にはでてこない詳細な環境保全上の対策の言質をとっておくという意味もある。最後に環境庁長官名の公文で、環境保全上の注文を「意見」として述べ、運輸省はその「意見」の内容を条件として県に認可を行う。

志布志の場合、この一連の過程に、県の環境局はどうかかわるか。回答案を書く企画部局(企画部地域振興課)、事業部局(土木部港湾課)から要請があれば助言程度はするけれど、基本的には本件にはノータッチのはずであった。

さて、昭和59年夏には霧島屋久国立公園指定50周年記念式典を開催するとあって、大忙しの頃、環境庁から筆者に志布志アセスのパイプになってくれとの要請があった。

一次質問に対する回答がでてきたが、とても話しにならない回答ばかりで、これでは到底前に進めない。質問の隠された意味を読み取り、それなりに環境庁の望むような回答で、質問―回答を絞り込んでいかないとダメだというのである。

やむなく、筆者は50周年記念式典の業務は放棄。桑畑さんがすべてとりしきってくれた。そして筆者はほとんど東京に張り付き、環境庁と県の企画部局、事業部局との隠れたパイプ役に徹せねばならなかった。

それでも最終決着、即ち運輸大臣への環境庁長官意見の提出は9月という予定で着々と進行していったが、途中でその決着をなにがなんでも早めて8月11日には環境庁長官意見提出まで漕ぎつけろという知事の(というより知事の名を騙った企画部局の)厳命が降りた。9月県会との関係で、盆前に免許取得と立地決定、盆明けには備蓄会社設立とスケジュールを前倒しにしなければならず、そのためには8月11日がタイムリミットだということなのだが、どう考えても勝手な理屈で環境庁サイドを納得させうる正当な理由がない。企画部局が自分たちにゆとりを持たせようとして相当サバを読んだ可能性も強い。知事に直訴しようにもシャットアウトされる。案の定、環境庁はカンカンである。それやこれやで、県の企画部局、事業部局との軋轢も絶えず(とくに企画部局は情報を秘匿するだけでなく、平気で見え透いたうそをつく)、胃の痛む思いであった。

それでも環境庁サイドも筆者の立場を察してスピードアップに協力してくれ、なんとか目鼻が付きそうになった。

第二次質問の頃から環境庁の意図が見えてきたが、県の企画部局、事業部局サイドは気がついていない。環境庁はなんとか備蓄基地で志布志湾開発を打ち止めにするという言質をとりたいのである。そこで、第二次質問で志布志の海浜は自然環境保全上重要であること、そのため備蓄基地は環境保全に留意した設計で環境破壊を最小限にとどめること、といった回答を誘導していったのである。

第三次質問がでた。ただ、一問。「前回回答の・・・、・・・を総合すれば、志布志湾でこれ以上の埋立は自然環境保全上容認できないと解してよいか」である。

タイムリミット(8月11日)の前夜である。イエスの答えでないとタイミリミットオーバーになってしまい、知事が恥をかくことになってしまう。

ところで、県では備蓄基地は縮小した新大隈開発計画の一部であるというのが公式見解であったし、とくに企画部局はその看板を絶対に下ろせない立場にあった。しかし、新大隈開発計画は前知事時代のものであり、現知事にさしたる思い入れはなく、時期未定ながら備蓄基地につづくとされている巨大コンビナートはあきらめていたというのが本音だった。なんとかその本音をひきずりだしたかったのである。

内内に筆者に打診された企画部局の回答案は意味不明で、こんなものでは環境庁は到底飲まないと突っぱねる。

深夜、環境庁の親友S君と長電話で、ぎりぎりの接点を相談する。ふたりで相談した回答案は概ねつぎのようなものだった。

「基本的には貴見のとおりである。環境保全目標の達成を困難にするような巨大な構築物のこれ以上の出現は極力避けるべきであると考える」

「基本的には」とかのような微妙な形容詞を方々にまぶしているので、ごちゃごちゃいうのがいるかも知れないが、環境庁サイドはこれで説得するとS君。

さっそく鹿児島に待機している桑畑さんに電話し、この回答案が環境庁が飲めるぎりぎりの案であると伝える。桑畑さんはすぐに局長を伴い企画部局と談判。絶対飲めないという企画部局に対し、これが飲めないならタイムリミットを越してしまうし、環境局は手を引く。あとはお好きな※空中戦でもなんでもやってくれと恫喝。ついに副知事まであげ、知事の了解がとれればこの案でOKとなった。御前会議。知事は苦虫をかみつぶしたような顔で、じっと考え込み、ついに断を下した。ゴーである。明け方、桑畑さんからその報告を受け、すべてが終わったとばかりに爆睡する。

※有力政治家を使って強姦すること。これをやられると環境庁の事務方の反発はすさまじく、「江戸の敵を長崎で」となるのが必至なので、環境局としてはこれだけは避けたい。逆にいうとごちゃごちゃ言ってると空中戦に持ち込むぞというのが企画部局の環境局へのこれまでの脅しだったのである。

筆者はこのときばかりは県と環境庁の板挟みでなく、ふたつの巨大組織の双方を操り、手玉にとったかの快感を感じた。なにより知事の威光を笠にきた企画部局に一泡吹かせたのが痛快だった。

予定通り8月12日に埋立免許取得、無理難題をクリアーしたのである。しかし立地決定は8月末までずれこんだ。それでも間に合った。やはりサバを読んでいたのである!

さて、このあとも志布志がらみではいろいろあったが、こうした環境局の影の努力と苦労を知る人は少ない。

ところでこの努力、この苦労になにか意味があったろうか?

巨大な人工島が忽然と出現したことは、どう言い繕おうとも、自然環境保全上マイナスであることは言うまでもない。工事中こそ或る程度地元は潤ったかも知れないが、備蓄基地の性格上完成したいまとなっては、雇用力も知れたもので、地域振興の切り札にはならず、過疎化の傾向は依然としてつづいていることだろう。一体なんのためにーという疑問は消えない。しかしわが環境局が奮闘しなかったら、もっとひどいことになっただろうと我が身を慰めたのだった。

面識はないまま亡くなられたが、反対運動のリーダー、藤後惣兵衛さんの「スモッグの下のビフテキより、青空の下のお握り」という名言を思い出す。  

(行革騒動記)

昭和61年秋、環境局のもうひとつの課である公害規制課長になった。人事当局は商工部観光課長という線を内内考えていたようであるが、商工部が猛反対。観光課長は県の財界等とのつきあいがあるので、国から来た若い人(筆者は40歳だった)ではムリだというのが、反対の理由。そこで桑畑さんの尽力で公害の技術屋さん(化学職)のポストを一時拝借したのである。なお、そのご国から来た若い人には勤まらないはずの観光課長には自治省から二十代の課長がやってきた。環境管理監という筆者のいたポストは空席のままである。桑畑さんは補充したかったのであろうが、県上層部は筆者一代限りの特設ポストと考えていたようである。

さて、頃は中曽根内閣。いまと同じで行革が流行り言葉になっており、鹿児島県も行革するという話がでてきた。庁内で流されていた噂や新聞報道等でおぼろげにその姿が見えてきた。環境局の懸念はつぎの点にあった。

一、環境局は独立した局として存続できるか

 −局を廃止し、部に統合されるのでないか

二、原子力安全対策室は独立した室(課と対等)として存続できるか

 −原則として一部局一課室削減と言われていた。環境局は二課一室しかない小さな組織であるが、例外として認められるか。

三、環境管理監(課長級)ポストは存続できるか

 −ポストは存続していたが空席になっていた。ポストそのものがなくなるのでないか。

結果は完敗であった。以上の懸念はすべて的中したのである。環境局は衛生部に統合され「保健環境部」となり部長は衛生部長が横滑りになり、局長ポストは廃止。その代わりに部の次長格として「環境審議監」が設けられ桑畑さんが就任。原子力安全対策室は公害規制課の課内室に格下げとなり、筆者が室長併任になったが、日常業務は新たに設置された「原子力安全対策監」がみることになった。環境管理監は筆者一代限りのはかないポストとなってしまった。

局廃止の噂が流れだした頃、局の幹部会で筆者が局存続の運動を行う必要性を説いたことがあるが、賛同してくれたのは桑畑さんだけであった。いや、それどころか、筆者は口だけでなんの運動もしなかったが(しようにもする術もパイプもない)、桑畑さんは長年培ってきた人脈を頼って、局存続運動を密かに行った。原子力安全対策室の格下げ必至となったときは、環境管理課の自然保護係に観光課の施設係を併合し自然保護対策室(独立室)構想も画策された(※)。

※観光課で行っている国立公園、国定公園の施設整備は環境庁の補助事業が中心であり、他県では自然保護課で行っているところが多いし、そのほうが合理的である。

しかしすべては徒労に終わった。県の上層部が一切聞く耳持たなかっただけでなく、局長も環境センター所長も局長、所長OBもまったく動かなかったからである。少なくとも新聞では「環境局廃止という案があるようだが、それは環境行政の後退でないか」という批判的論調だったのにである。残念だったのは環境プロパーの技術屋さんをはじめとする局内世論もまるっきり無関心だったことである。

さて、この行革でなにが変わったか。行政の簡素化、合理化という観点からは著しい逆行になったことである。

なぜか。例えば原子力でなにか問題が起きたとき、以前ならば原子力安全対策室長→環境局長(→知事、副知事)というラインで迅速な対応がとれたものが、原子力安全対策監→公害規制課長(兼公害規制課原子力安全対策室長)→環境審議監→部長といくつものクリアーが必要になるからである。おまけに部長はつかまえるのが大変なので飛び込みがむつかしく一々あらかじめアポをとらねばならない。これのどこが行革なのか? 業務を減らして対策監、審議監という中二階ポストをなくせれば話は別だが、業務自身は減らないのだから、課長(室長)、部長だけでは到底対応はできない。そのくせ対策監や審議監には決裁権もなく県会での答弁権も与えないというのだから、ナンセンスというしかない。行革の真髄は組織を減らすことでなく、仕事を減らすのでない限り、権限の下部への委譲なのである。こんな簡単なことがわからず、今日の行革も似たようなことをやっているのは噴飯ものである。

その行革が実施されたのは61年4月。一月後、チエルノブイリ原発事故が起き、格下げされた原子力安全対策室は庁内でもっとも忙しい部署のひとつとなったのであるから、とんでもないミスリードというしかないであろう。

筆者が鹿児島県を去ったあとも、なんども旧・環境局の組織は「がらがらポン」がつづいている。桑畑さんも在野で切歯扼腕されていることだろう。

(さいごに)

以上、ふたつの案件だけをとりあげたが、これだけで規定枚数はオーバーしそうである。これでやめるが、もちろん桑畑さんと一緒にやった仕事のほんの一部を紹介したに過ぎない。

環境管理監時代には、ダーテイな輩に桑畑さんとふたりで対決した桜島溶岩問題、土木と一戦交えた屋久島西部林道問題、観光課の尻拭いをさせられたというのに挨拶ひとつ来ない商工部の非礼をふたりして憤慨した桜島ビジターセンター問題。

公害規制課時代には、悪戦苦闘してまとめあげた新・鹿児島湾ブルー計画、ついに日の目を見なかった桜島火山ガス緊急ガイドライン。

等々と、鹿児島時代の思い出は尽きず、いまも走馬灯のようにめぐるし、いつか機会があればこれらの問題も詳述してみたい。

筆者が恵まれていたと思うのは、じつにいい仲間に取り囲まれていたことである。

環境管理監時代の種子田さんらの自然保護係の面々、そして同年の日高さんを筆頭とする公害規制課の面々。年齢、職種、ポスト、性別さまざまであったが、そんなもろもろのことを乗り越えて楽しく仕事ができ、しょっちゅう飲み歩いたことは生涯の思い出だし、いまもたまに鹿児島に行くと多くの仲間が集まってくれるのは望外の幸せである。

そして、そんな筆者を兄のようにやさしく見守り、仕事の上でしっかりと支えてくれた桑畑さんにはいまも足を向けて眠れない思いである。

なによりも桑畑さんは事務屋さん出身であるにもかかわらず、環境プロパーの技術屋も太刀打ちできないほど、環境問題に対する見識と情熱は深いものがあり、また事務屋にくらべ昇進の遅い環境プロパーの技術屋の処遇改善に全力を傾注された。

もうひとつ、これはぜひ言っておきたいのだが、じつに桑畑さんは潔癖な人だった。当時は管理職の場合、個人的な、或いは身内との「飲み方」は庶務が面倒をみるケースが決してまれではなかった。しかし、桑畑さんは飲むのはお嫌いではなかったが、そうしたことの公私の別はきちんとつけておられた。おかげで筆者もそれを見習い、後ろ指を差されるような悪癖に染まらずにすんだ。

桑畑さんは退職されたいまも南九研を主宰され、在野の立場から環境問題をライフワークとされていることに心から敬意を表するとともに、南九研のさらなる発展を心から願う次第である。

(二〇〇一年五月二十日)