水質環境基準改定の動き
―先生、寒くなったですねえ。ついこの間までの猛暑がウソみたい。温暖化対策とヒートアイランド対策をやらなきゃいけないって思ってたんだけど、もうどうでもよくなっちゃった。
―こらこら勉学の秋到来だ。キミもちゃんと勉強しなきゃあ、卒業できないぞ。
―わかってます! でもボクが単位を取れないのは先生のせいですよ。女子学生には、ばんばん単位をあげているくせに。なんでボクにだけ厳しいんですか。ボクがモてるから僻んでんじゃないですか。
―LCAをLos Angels in California of America と答えるような奴に単位はやれないよ。
―(舌を出して)ちぇっ、とんだやぶへびだったか。ところで今日はなんの用ですか。
―できがわるいキミに、ときどきは昨今の環境行政最前線を特訓してやろうと思ってね。論文書く時間を削ってのボランテイアなんだから感謝しろよ。
―(小さく)論文なんて書く意欲も能力もないくせに。それに先生の与太話なんて聞いてくれるのはボクしかいなかったんでしょう。
―なんだって?
―いえいえ、なんでもありません。で、なにから?
―なんでもいい、ここ数ヶ月の話題をあげてごらん。スポーツ、芸能ネタはだめだからな。
―(すらすらと)雪印や日ハムにつづき、東電の原発データ隠蔽問題の発覚が大問題になりましたよね。これでプルサーマルは完全に暗礁に乗り上げたし、政府の目論んでいた温暖化対策も赤信号。コイズミ内閣のデフレ対策・景気対策もさっぱり効を奏さず、内閣改造でマーケット至上主義者の竹中平蔵が前面に出たけど、与党内からだけじゃなく、皮肉なことにそのマーケットからも完全にそっぽを向かれて、株価は下落する一方。対する民主党は旧態依然たる党首選のごたごたで失笑を買い、つい先日の補選では惨敗。世界に目を向けると、イラク問題であいかわらずきな臭い匂いがふんぷんとしているなか、バリ島やモスクワの劇場で惨劇が発生。あ、そうそう。ほのぼのとしたところではタマちゃん騒動がありましたよねえ。それにノーベル賞騒ぎ。
―お、新聞だけは読んでるんだな
―だって、就職試験のために時事問題もやっておかなきゃいけないんですよ。
―そのまえに、単位だろう。でもあの田中さんてのは一服の清涼剤だね。ぺいぺいの中年サラリーマンで、学位も持たない人がノーベル賞。おどおどしてる姿がよかったねえ。役員昇格を荷が重過ぎると断ったり、特別報奨金が多すぎると尻込みしたり。
―(ニタッと)ほんとですね。何の意欲も能力もないくせに、学生いびりばっかりしてるどっかの大学の先生とおおきな違いですよねえ。
―(ムッとして)これでまたキミの卒業は遠のいたな。
―え? 別に先生のことじゃないですよ。それともなんか身に覚えがあるんですか?
―う、うるさい。それからカーター元大統領にもノーベル平和賞がいった。明らかに史上最低最悪の大統領、カウボーイ気取りのブッシュへのあてつけだね。ノーベル賞委員会を見直したよ。他には?
―もちろん昨今は北朝鮮問題一色ですけどね。拉致疑惑と核開発問題。
―ま、あの問題はここで取り上げるべき問題じゃないから、やめておこう。ただね、拉致だけを大騒ぎしているよね。でも高度経済成長前夜に日本が戦中に強制連行した十万人近い在日の人たちが帰還した。その人たちが、そのごどうなったかをまったくだれも気にしていないのは余りにも無責任じゃないかな。また、核開発については、断念させるよう努力をするのは当然だけど、倫理的に言えば、アメリカをはじめとする核保有国に対する批判もしなきゃいけないし、自らも核の傘の下から脱却する努力をしなければいけないと思うよ。
―先生、そりゃリアルポリテイックスに無知すぎますよ。
―でも、だれかが言わなきゃ。ところでヨハネスブルグサミットはどうなんだい。
―なんですかそれ?
―じゃ、COP8は?
―(きっぱりと)知りません
―(溜息)やれやれキミは一体どこのゼミなんだい。
―冗談に決まってるじゃないですか。任せてくださいよ。ヨハネスブルグサミットてのは別名環境・開発サミット、またの名をリオ+10会議。リオデジャネイロで開かれたUNCEDから十年目だというので、世界の首脳やNGOが集まって、地球環境問題や南北問題を議論したんでしょう。なんだかんだで一悶着あったけど、最後はまとまって、共同声明かなんかを出したじゃないですか。よかったですよねえ。
―ま、上っ面だけ見ればそのとおりなんだけど、「なんだかんだで一悶着」の中身と経緯、そして最後の「実施文書」と「政治声明」をどうみるかってことだよね。たしかに、キミの言うとおり文書と声明を最後に取りまとめただけでも有意義だったって見方もある。でもNGOの評価はボロクソだね。なにひとつ具体的なことは決まらなかったし、南北間の溝も埋まらなかった。とりあえずどうにでも読めるような中身の空疎な声明でお茶を濁しただけだって
―先生の評価はどうなんですか。
―行ってないからわかんないよ。
―行ったってわかんなかったでしょう。だって先生の英語はThank youとNice to meet you だけなんだから。
―そりゃ、ま、そうなんだけど。(一瞬ののち)えーい、キミはいつも一言多いね。でもねえ、あれは完全に玉虫色の決着だね。それまで蜜月関係だった政府とNGOの仲も一気に冷え込んだみたいだし、日本は再生可能エネルギーの数値目標を決めることにアメリカの後押しをして、ついに阻止してしまった。本来ならば、ブッシュ主導の反環境主義のアメリカを包囲し孤立させなけりゃいけないのにねえ。これで、倫理的にEUに完全に遅れをとってしまった、情けないねえ。それに世論全般も十年前のリオ会議と比べて、熱が冷めたなって感じがしたよ。これで、ブッシュが非道なイラク攻撃なんかおっぱじめちゃったら、とんでもないことになる。二十一世紀は暗いね。ま、絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに同じってあの魯迅センセイも言ってるから、むやみに絶望してもはじまらないけどね。ハッハ。
―よくそんな暗いことを笑って言えますねえ。先生の人格が疑われますよ。ま、前から疑われてますけどね。
―ハイ、留年確定。いっちょアガリ!
―ひどいアカハラじゃないですか。
―なんだ、アカハラって。アカペラなら知ってるけど。ぼくは自信あるんだ。
―アカデミックハラスメントのことですよ。訴えますよ。
―(聞こえぬふりで)腹が黒いのにアカハラとはこれ如何に。トテシャン♪っと。
―こりゃ、ダメだ。先生、ところで、COP8をいまやってるんでしょう。こっちはどうなったんですか。
―わからない、COP3やCOP7とちがって日本の新聞もTVもまったく報道しないからね。環境の世紀はじまるって、大騒ぎしたのはついこの間だのにねえ。もちろん、インターネットで検索すればいいんだけど、なかなかヒマがなくてねえ。
―(ニタッと)第一、英語ですもんねえ。
―うるさい、じゃ、別の話題に行こう。
―じゃ、なんか少しは実のある話とか夢のある話をしてくださいよ。
―そうだな。いよいよ水質環境基準の見直しが本格化したみたいだ。環境基準って知ってるよね。
―あったりまえじゃないですか。環境上の望ましい基準で行政の目標とするものでしょう。英語で言えば Environmental Quality Standard 。
―お、えらい、えらい。でもねえ、だれの何にとっての望ましい基準なの?
―? みんなが文化的で健康的な生活を送る上ででしょう。
―そう、みんなってのは人間みんなってことだよね。人の健康または生活環境を守る上での望ましい基準ということになっている。だから概念上健康項目と生活環境項目のふたつがある。そしてこれを維持達成することが行政の努力目標になっていて、そのため規制だとかさまざまな手段を講じている。環境基準は、環境中の濃度の話だから、煙突出口や排水口の濃度の規制基準と混同しちゃダメだぞ。健康項目は全国一律と決まっているけど、生活環境項目の場合は直接健康に関係するわけじゃないということで、何段階かの基準が決まっていて、自治体がどの基準にするか個別にあてはめることになっている。これを「類型あてはめ」って呼んでいる。大気には健康項目しかないんだけど、水質では健康項目の他、生活環境項目も決められていて、川の場合だとBOD、海や湖ではCODというのが代表的な指標になっていて、利水の状況に着目して類型あてはめを行っている。
―なんだか、下手な講義聴いてるみたいですね。で、なにが問題なんですか?
―じつは環境基準にはさまざまな問題があって、これだけでも一冊の本が書けるくらいなんだけど、今日の話は、そもそも環境基準は「人の健康または生活環境」を守るためだけでいいのかという大前提にかかる問題だ。
―わかった! 「生物多様性」のことでしょう。
―ピン、ポン! だいぶ勘がよくなったじゃないか。九十年頃から生物多様性の保全というのが、国際的なキーワードになった。この概念自体、遺伝的多様性だとか種の多様性だとか生態系の多様性だとかいろんなレベルで言われていて、よくわからないところもあるんだけど、いずれにせよヒトも生態系を構成している一員であり、その生態系を撹乱させるとヒト自体もおかしくなってしまう、他の生物との共生を図らなくちゃいけないということだね。だとしたら、環境基準もそうした生態系保全の観点からもういちど考え直さなければならない。
―へえ、じゃ、コペルニクス的転回じゃないですか。
―そうは簡単にいかないよ。大体生物多様性の保全なんて、総論賛成、各論反対の世界だもん。科学的なデータなんてないに等しいし、きちんとでてくるかどうかもわからない。害虫だとか病原体生物も保全しなきゃいけないのかとかうんざりするような議論も出て収拾がつかなくなるよ。だから、将来的にはそういうことも視野に入れつつ、とりあえず、できるところから地道にやっていこうということだろう。
―というと?
―水質の場合、まずは魚などの水生生物だね。これをターゲットにすれば理解が得やすいだろうということで、淡水域の上下流、海域と三つに分けて、ホルムアルデヒドなどの化学物質、カドミウムなどの重金属の計九個の物質について、夏に水質目標値案を公表した。で、これをもとに魚の棲めるような水質に水域を保全することは、広い意味で人間の生活環境を保全することだという理屈で、審議会にかけて来春には生活環境項目に追加しようと考えているみたいだ。
―なんか随分遠回りみたいだけど。
―仕方ないよ。これだって随分抵抗があると思うよ。だって、生活環境項目と言っても、実質的には健康項目の基準強化だもん。
―えー、なんで、なんで
―いままで生活環境項目というのはBOD、COD、SS、DO、大腸菌群数、油分、PH、全窒素、全燐しか決まってなくて、いわゆる化学物質だとか重金属はすべて健康項目だった。そういう意味ではミニ・コペルニクス的転回といっていいんじゃないかな。あとは、そうした個々の物質だけでいいのかっていう問題や、水質だけじゃなく水辺や底質など水環境総体の環境基準も決めなきゃいけないんじゃないかとか、いいだせば切りがないけど、とりあえずはいい着眼点だと思うよ。それに健康項目自体も追加の動きがあるみたいだよ。
―へえ、辛口好きというか、悪口雑言が趣味の先生にしては珍しく点が高いじゃないですか。
―うるさい! 水環境部というのは昔の水質保全局でぼくの古巣だ。調査官をやり、いまはなき瀬戸内室長をやり、水質規制課長もやった。だから内情もよく知ってるし、環境庁の省昇格に伴い、局から部に格下げになったから、余計にエールを送りたいってとこはあるけどね。
―ちがうでしょう。悪口を言ったりしたら、自分は現役時代なにをしたんだと逆ねじをくわされるのがオチだと思ったんでしょう。旧悪を暴露されたくなかったから。
―ほんと、キミは素直さに欠けるねえ。ぼくもよく辛抱しているよ。ま、いいや。でも、これからは常時監視がますますたいへんになる。
―情事監視? ボクもやってみたい!
―そりゃ、ジョージ違いだ(苦笑)。環境基準を決めたって、それを維持達成しているかどうか常にチエックしていなけりゃ意味がないだろう? それを常時監視という。途上国でもたいてい立派な環境基準を定めているけど、じつはほとんどの場合紙に書いてあるだけで、ノーチェックバーナーなんだ。
―ノーチェックバーナー?なんです、それ?
―ま、いいじゃないか。その点、日本は立派で、自治体がきっちりと監視している。環境基準点、たとえば水質だったらなんとか橋の下とか定点をいくつも決めておいて、定期的に採水し、チエックするんだ。項目を増やせばそれだけカネや人手がかかる。一方じゃ、赤字財政でなかなか財政当局は予算の増額を認めてくれないからなあ。
―どうすればいいんですか。
―ろくでもない公共事業をちょこっと削ればなんでもない額なんだから、首長さんにがんばってほしいねえ。ただこういう汚染測定ってのはppmの世界、いまやppb,pptの世界だよねえ。こういうのって素人じゃできないし、数字を聞いてもピンと来ない。だから、それだけじゃなく、それを補完するような、NGOや市民でも簡単に測れる簡易測定、簡易指標の開発も急務だと思うよ。ま、これも言うは易し行うは難しなんだけどね。どうだい、少しは実のある話、夢のある話だったろう。
―ボクも実のある話も仕入れてきましたよ。中国からの酸性雨が問題になっているでしょう。でもねえ、一方じゃ黄砂も増えてきているそうですよ。で、あの黄砂が酸性物質を中和してくれているそうですよ。少し、安心したでしょう?
―キミねえ、黄砂が増えてるってことは砂漠化が進行しているってことだろう? 中国で砂漠化が進行したほうがいいの? エアロゾル、つまり大気汚染物質が大量に増えれば太陽の光を遮るから、温暖化防止になる。だからエアロゾルをどんどん出せってことになるよ。それでいいの? どこが実のある話なんだい。だいたいキミは・・(お説教がはじまる)
―(途端に)あ、いけないデートの時間だ。彼女が時間にうるさいんですよ。折角ですけど、これで失礼します。じゃあ、単位をよろしく。さようなら!
(平成一四年十月三十日)
※本稿は南九研時報36号(平成14年11月、南九州地域環境問題研究所)に掲載された拙稿の連載「環境行政ウオッチング」を短縮して改稿したものです。