環境漫才への招待

環境漫才こと始め

(前夜)

早いもので、筆者が恐怖に戦きながら大学に来てから、はや7年余の歳月が流れた。筆者は大学卒業後、厚生省(のち、環境庁、現・環境省)に奉職、三箇所でのパークレンジャー(国立公園管理官、現・自然保護官)を皮切りに、29年間、一貫してさまざまな環境行政の最前線に立ってきたが、96年環境庁を退官し、大学教員に転進した。しかし、あの一本の電話がなるときまで大学に行くことになるなどとはついぞ思わなかった。

某月某日環境庁の出先機関に在職していたとき、突然一本の電話が鳴った。とりあげると、われわれの実質的な人事権者であるS審議官である。

「なんですか? マサカ肩たたきじゃないでしょうね。まだ一年ありますよ」(T種採用公務員の大半は勤続25年50歳になると肩たたきで「天下り」するというのが当時の、というか現在までつづく暗黙のルール。もっとも環境庁では超エリート以外は給料ダウンがあたりまえだったから、「天下り」という語感とはだいぶ異なる。このとき筆者は49歳)

「いや、そのマサカなんだ。キミ、二年後のことなんだけど、大学から人が欲しいと言ってきている。で、キミを推薦しておいたから」

「悪い冗談はやめてくださいよ。大学院にも行ってない、学位もない、英語もダメ、論文も書いたことがない、そんなボクが大学キョージュだなんて。ハッハ」

「いや、ホントウなんだ。自然保護と公害とまんべんなく両方やったもので適齢期にあるのはキミしかいないんだよ。だから受けてもらわねば困る」(自然保護は造園職、公害は土木職と技官の縄張りが決まっており、ときおり人事交流することはあっても、それは一時の助っ人というのが通例であった。筆者は造園職であり、自然保護・自然公園畑の技官である。その関連の仕事に十数年携わったのち、一時の助っ人のはずで大気保全局に行ったのがウンの尽き。以降人事の綾とやらいうやつで、最後まで公害、環境管理畑をぐるぐる回って終わったという、珍しい経歴なのである。もちろん法律職のような事務官はそういう縄張りはないのであるが、環境庁ができたのは昭和46年であるから、かれらはまだ退職年齢に達していなかった)

(どうやら本気と気付き)「勘弁してくださいよ。ボクなんかが大学に行けば、環境庁の恥を晒すようなものですよ」

(押し問答ののち恫喝するように)「キミ、この話をどうしても断るというのなら、キミの将来は絶対ないと思え!」

「・・・」

(なだめるように)「二年後の話だ。まだ時間がある。英語が苦手ならハワイの東西センターに客員研究員として一年間派遣するから、その間に英語の勉強をすればいい。な、わかったな。頼んだぞ」

「・・・」

という経緯ののち、大学に行くことになったのである。

もちろん、それ以前にも大学教員に転進していった役人がいないわけではないが、環境庁の場合は、大学志望の職員が、論文を書いたり学会活動をしたりして、個人的に動き、それが功を奏した場合に限られていた。ところが今回は組織対組織の話だったのだ。

それにはつぎのような事情があった。即ち、本大学では新しい学部を創設することになり、いろんな斬新なコンセプトが出されたのだが、その一つに「環境」を新学部の創設目的のひとつにするというのがあり、さらに教員にはアカデミズム出身者だけでなく、実務経験者も何人か呼びたいというのがあった。そこで、官庁関係では環境庁も含め、三つの省庁に人材派遣を申し入れしたのであった。

古き良きニッポンでは、親同士で勝手に結婚を決めて、本人同士は結婚式まで顔をあわせたこともないことがあったと聞くが、それと似たような話のキョージュ誕生劇であった。

二年後、ハワイに派遣されたものの結局英語は最後までチンプンカンプンで終わったのち環境庁を退職し、先輩たちにあいさつ回りしたときのことである。某先輩が耳打ちするように小さく「キミ、(大学に行くのに)どんな裏技を使ったんだね?」と言われた。「裏技も何もありませんよ。ボクだって行きたくて行くんじゃないんです!」と事情を説明したら、某先輩は目をまんまるにして「キ、キミー。それがほんとうなら、キミは宝くじに当たったようなものなんだぞ」と言われたのを妙に覚えている。 (大学という異空間)

さて、役所から大学に来て、とてつもない秩序感覚の喪失に晒された。なんだかんだ言っても自分は骨の髄まで役人だったんだなあと思い知らされた。というのも、いまにして思えば、単独駐在のパークレンジャーだったときも含めて、いつも心のどこかで、自分をピラミッドというかヒエラルキーのどこかに位置づけ、組織の一員として行動していたからである。

ところがここではそうしたものがなにもないのである。上司もいなければ、部下もいない個人商店主のようなものである。学部開設二年目ということもあり、担当授業もまだなく、ノルマの一年生と二年生のゼミ(クラス担任)の週二コマさえこなせば、あとは出勤の義務すらないことにとまどいを覚えた。それこそ<研究>をすればいいのだろうが、どうも<研究>のイメージというのが、いまいちわからず、まったく手につかない。大体、役人は請われもしないのに、仕事以外での原稿を書いたり、学会活動をしたりという習慣がないのである。

講義は二つ受け持つことになっていたが、開始にはまだそれぞれ一年半と二年あるので、その間に講義ノートでも作ればいいのだろうが、一年半とか二年というのは役人的感覚からすれば、はるかに遠い未来の話なので、到底手をつける気にならない。

さて、とは言っても毎日毎日が綱渡りのような役人生活とまるで異なる日々にとまどったのは最初のうちだけで、人は無為の生活にすぐ慣れてしまう。毎日学校には行くものの、ぼおーと環境関係の雑誌などを眺めている快適さにおぼれ、あっという間に一年以上が過ぎた。

(講義ノートに悪戦苦闘)

講義開始までにあと夏休みを残すだけになったとき、いよいよ重い腰を上げ、講義ノート作成にとりかかった。しかし、講義開始までになんとか準備が整ったのは最初の数コマ分だけである。

やむをえない、その数コマが終わると、あとは授業が終わるやいなや、来週何を講義するかを考え、資料を探し、プリントを作るという作業に、ほとんど毎日午前様という有様。二つの講義を一通り終えるまでの一年間、まるで不夜城の霞ヶ関時代を思い起こさせるような毎日だった。

筆者は「環境管理論」「ごみの発生と処理」という講義を受け持つことになっていた。

さて、「環境管理論」の講義ノートを構想しているときに、しみじみ役人の特性というものを考えさせられた。

もともと研究者育ちでないので、「環境管理論」では、役人時代に自然保護、大気汚染、水質汚濁・・・いろんな仕事をやってきたので、その話をすればいいと思った。

しかし、役人時代いろんな仕事をそのときどき一所懸命やってきたのであるが、それを総括する段になって、その全体を通底する価値観のようなものがないのに気付いたのである。

大気保全局で未規制物質担当のときは未規制化学物質の問題こそが環境の最重要課題と思い、水質保全局で閉鎖性水域の富栄養化問題担当のときは、この問題こそが、環境の最重要課題であると自分に言い聞かせて、深夜までの残業も厭わなかったのであるが(そう思い込まねば馬鹿馬鹿しくてやってられない)、さて、マクロに見れば、そのどちらの優先順位が高いか、人的資源や資金をどう振り分けるのがベストかというような課題にはあえて目を瞑っていた。

そうした価値観というか価値体系の構築は縦割りに分断された役人には不要であるし、邪魔でこそあるが、「環境管理論」を論じるとなれば、避けて通れない。それに折り合いをつける間もないまま、戦場に到達したようなものであり、冷や汗の連続であった。

もっともいまの大学生は思った以上に無知で純真であったから、個別の薄っぺらな知識だけでも感心して聞いてくれ、懸念していた教壇で立ち往生するような事態は生じなかった。

価値観、価値体系の問題に関しては、頼まれてやむなく引き受けた市民を対象にした講演会を何回かこなしていくうちに、なんとはなく自分なりの答えを見つけていった。

もう一つの講義は「ごみの発生と処理」であるが、こちらのほうはもっとたいへんであった。実務経験がゼロ、つまりまったくの素人なのである! 

廃棄物行政は現在でこそ環境省所管であるが、当時は厚生省所管であり、いちども筆者が関わったことがない分野である。もちろん、廃棄物行政は環境とも縁が深い分野だし、役人出身だからちょっと勉強すれば一時間半程度の講演をするのは簡単であるが、しかし、一時間半の話を中身を変えて十数回話をしなければならないのだ!

そこで考えたのが時間つぶしである。そのひとつとして、時事解説をやった。授業の最初にその週の廃棄物や環境に関連する新聞記事をいくつか紹介し、コメントや裏話で2,30分時間を稼いだのである。ところが授業の最終回で、無記名の授業評価を受講生にやらせたところ、この新聞記事を題材にした時事解説が一番好評という思わぬ結果になった。おかげで、これが筆者の授業の<売り>になり、今日まで新聞の切り抜きをやめられないできている。

一番困るのは「先生の専門はなんですか」という質問である。考えてみると辞令一枚で二、三年ごとに異なる仕事についてきた。大気保全局にいるときは大気の(と言っても限定された一部であるが)勉強をするが、或る日水質保全局に異動になれば、その日から水質保全の猛勉強。そしてそれと同時に大気のことはどんどん忘れていく、その繰り返しだったから、専門と胸張って言えるようなものはなにもないである。

しかし、教師になって一年もすればしゃらっと「生態学」ですと答えるようになった。そうすると必ず「なんの生態学ですか、森林生態学ですか、海洋生態学ですか」のような更問(サラトイと読む。役所用語で再質問のこと)がある。そこでおもむろに「役人生態学です。役人の論理、倫理、心理、生理そして病理のようなものが専門です」と煙に巻くことを覚えたのである。もっとも、これはある意味では本音であった。

しかし、近年これに関しては自信喪失気味である。役所自体が急激な勢いで変質してきているからである。

今年一月、淀川流域委員会が淀川水系5ダムの中止を提言したとき、これは委員会と国土交通省との出来レースだと思い、学生の前でおそまきながら国土交通省も方向転換したと広言した。流域委員会のメンバーは国土交通省近畿地方整備局長が任命したからである。しかし、そのご近畿地方整備局は5ダムとも建設は有効と発表したのであるー

役人というのは利害関係者大半が渋々でも納得せざるを得ないような「落としどころ」を見つけ、それに向けて根回しその他で誘導するという、かつての「役人生態学」の常識が通用しなくなっていたのである。環境や廃棄物にかかる政策は90年以降大きく変わってきており、いまも変わりつつある。したがって、授業の中身も毎年のように変えねばならず、それのフォローアップだけで、相当の時間がとられる。

さらに、最初ヒマを持て余していた頃、いろんな委員会などの校務に積極的に協力したのを見込まれてか、のちには学生主任などという汚れ役を二年間引き受けさせられたせいもあり、ソファにくわえタバコでひがな1日という優雅なキョージュ生活は一年余りで終わったのである。

さて、<研究>のほうであるが、いくつかの研究プロジェクトに係わったり、論文を何本か書いたりもしたけど、どうも筆者の書くものは学術論文というよりは独断と偏見を免れない評論のようになってしまうのが悩みの種であった。

(環境漫才こと始め)

ところで筆者は二十年まえ鹿児島県庁に出向していたことがある。そのときの上司のKさんは事務屋でありながら、環境行政一筋に歩まれ、並みの技術屋さんなど太刀打ちできないほどの知識と情熱をお持ちの方である。県庁を退職後は天下りを心良しとされず、筆者が大学に来た頃、県内環境産業界のご意見番として自ら「南九州地域環境問題研究所」を設立され、機関誌「南九研時報」を隔月で発刊されるようになった。Kさんはそれに筆者の寄稿を慫慂された。独断と偏見に満ち満ちた評論まがいのものでいいと言うのである。

当初は「環境問題夜話」として断続的に寄稿。第21号(平成12年2月)からは「環境行政ウオッチング」と題して連載をはじめた。

24号(同9月)からはふと思いついて、気のおけない、だが、生意気な学生との対話をそのまま掲載することにした。これが「環境漫才」の誕生で、以降39号(平成15年5月)まで延々と続いている。

この原稿をファイルの形で環境庁時代の友人などに定期的に送っていたのであるが、それが目に留まったのか、最近になって同じ形式での連載原稿依頼が相次いだ。

かくて「瀬戸内海」(季刊、瀬戸内海環境保全協会)の31号(2002/12)から「H教授のエコ講座」がはじまったのである。

さらに、今年に入ってからは環境情報普及センターの主宰するEICネット(http//www.eic.or.jp/index.html)で、「H教授の環境行政時評」として毎月更新して掲載されるようになった。

この環境漫才、一部では好評なようで固定読者もついた。ネットでのヒット数は各講とも一万前後に達し、研究論文コンプレックスからはようやく解放された。これを環境漫才で表現すれば


* H教授―(シュンとして)そんなこと言われてもなあ。

* H教授―(真っ赤になって)おいおい、そこまで言うことないじゃないか。かりそめにもぼくはキミのキョーシだぞ!

* H教授―(急にニコニコ)うん、うん

(H教授の環境行政時評第6講「半年継続記念・読者の声大特集・付コーベ空港断章」(2003/7))


だが、三つの媒体に定期的に原稿執筆するのはかなりハードで、いつまでつづくか心許ない限りだし、それ以前に読者に飽きられるのでないか、また対談相手のAサンに逃げられるのでないかと心労は絶えないのである。

(さいごに)

役人が大学に行くというケースは今日では珍しくなくなった。

筆者のように環境庁から大学に行ったメンバーも二十数名を数えるようになり、環境の時代と言われるようになった今日、お互いが連絡をとりあおうということで、昨年「環境行政学会」という名の組織を立ち上げた。

われわれ環境庁出身の大学人が、学生のために、そして社会のために、なにがなしうるかをこれから真剣に考えねばならなくなってきたという思いからである。

このことを「環境漫才」でいえばつぎのようになる。


* H教授―そうそう、いよいよ「環境行政学会」を旗上げした。環境庁出身の大学人が二十人にもなったので、大同団結して、環境行政のありかたをみんなで議論しようということになった。将来は社会に発信できればいいなと思ってる。それで先日皆生温泉でみんな集まったんだ。

* H教授―え? どういうこと。

* H教授―(図星を指されて)う、う、なんということを・・・

* H教授―(顔を真っ赤にして)お、お、おい、それが教師に対しての言い草か!(と怒鳴るが、もう彼女は去ったあと)


(南九研時報34号 平成14年6月)