或るODAの一断面 ― 中南米X国Z生物圏保護区沿岸湿地保全プロジェクト
筆者は或る中南米の大国で実施されているODA(政府開発援助)事業に係わりを持つようになり、昨年末には現地を訪問した。環境行政ウオッチングはしばらく休載し、その顛末を二回に分けて報告する。残念ながら、現在進行中のプロジェクトであり、守秘義務というものがあるので、固有名詞はすべて伏せざるをえなかった。
登場人物 ― 日本側
- A氏:JICA担当課長、筆者の昔の部下
- B嬢:現地駐在長期専門家(サブ)。前JICA担当者(ジュニア専門家)
- C氏:現地駐在長期専門家(チーフ)
- D嬢:JICA担当者(ジュニア専門家)。次期長期専門家(サブ)候補
- E氏:短期専門家(プランクトン調査)
- F氏:某研究所勤務の日本語ぺらぺらのメキシコ人。A氏の懐刀
- G氏:短期専門家(建築設計測量)
登場人物 ― 日本側
- ぺぺ:Z生物圏保護区(ZRB)管理事務所所長
- マルコ:同所員。ペペの腹心
- ルビオ:X国資源環境省Y地方局局長。ZRBの上部機関の長
- フェルナンド:前ZRB所長
- ヘラルド:ZRB副所長。フェルナンドの右腕だったが、いまはペペに干される
- カルロス:X国Y州政府環境デイレクター。E氏の大学時代の同級生
(長い序 − A氏との再会とJICAプロジェクト)
一昨年の暮れのことである。どこでどう調べたのか十数年ぶりにかつての部下A氏から電話がかかってきた。 A氏は某省の技官で、昭和から平成に変わる頃の一年間環境庁に出向、筆者の下にいたのだ。雲突くような大男で、女性陣からは陰で「ガオウ」と呼ばれていた。じつはひょうきんな面もあり、和気藹々と楽しく一年を過ごしたのだが、筆不精なオトコで賀状も寄越さないものだから、そのまま消息も途絶えてしまった。 かれは某省に戻ってからは一貫して国際畑を歩き、現在JICA(独立行政法人・国際協力機構、旧・国際協力事業団)出向中で、課長職にあり、ODA担当だという。もう四十代半ばかと思うが、いまだ独身(うらやましい!)とのこと。 さて、肝心の用件なのだが、かれが手がけている「X国Y州Z沿岸湿地保全プロジェクト」の国内評価委員、しかも委員長になってくれとのことである。 こういうプロジェクトには必ず各種専門家からなるそういう委員会をつくり、かつそのメンバーには外務省以外でもっともかかわりの深い省庁―この場合は環境省―の推薦するメンバーが加わることになっていて、環境省から筆者を推薦させるからというのである。 読者もご承知のとおり、筆者は英語はThank you と Nice to meet you のみ。スペイン語となるとラテン音楽やタンゴのタイトルしかしらない男である。K氏は重々そのことを承知のはずなのにと訝ると、国内評価委員会なのでふだんは日本語のみでいい、昔お世話になったお礼に現地視察も考えているが、スペイン語圏なので通訳がつくから英語も必要ないとのこと。個々の専門家以外にバランス感覚と行政感覚のある(?)筆者のような取りまとめ役が必要だとのことで、ついキューバの場合と同様タダで海外旅行ができるならとスケベ心がでて、頷いてしまう。
註:そのごの展開を考えると、筆者を引き込んだ理由はほかにもありそうである。 即ち、こういうODA関連の自然保護案件の場合環境省はいつもレンジャー出身の国際派大学教授Ki氏(筆者の一年先輩)を推薦していたらしい。 このKi氏は自分がとりしきらないと気がすまないタイプらしく、同じとりしきりの大好きなA氏が敬遠、筆者だったらお飾りでも文句を言わない(言おうにも語学がまったくダメだし、国際案件にはなんの見識もない)とみていたのであろう。 事実、筆者はとりしきるのが大の苦手で、だれかにとりしきってもらうほうが楽でいいというタイプなのである。
明けて、昨2月、上京。初の国内評価委員会である。A氏と十数年ぶりで再会。昔とほとんど変わっていなかった。A氏や他の委員数名、それにうらわかき女性と昼食。この時代に接待でもあるまいに、と思ったらA氏のポケットマネーでの奢りだった。これから先も何回もA氏の自腹を切っての奢りがあった。払わせてくれないのだ。さすが独身貴族。 委員会の場でようやくこのプロジェクトの概略がわかった。
中南米の大国X国のY州の州都Y市から西南へ百キロ行った西岸のZ湾生物圏保護区(RB)、すなわちZRBがプロジェクトの対象である。南北に細長い湾の両岸はマングローブで、フラミンゴも多数飛来。狭い湾を橋で渡るとやはり南北に細長い半島になっており、海岸に至る半島中心部は湿地帯で、そこにZという数千人規模の町があり、Z郡の郡都になっている。この町全体も生物圏保護区RBの区域内らしい。X国の生物圏保護区というのはどうやら日本と同じで、土地の所有権・管理権とは無関係に法律で指定し、規制するシステムらしい。 海岸は砂浜でそこそこ名の知れたビーチ。Z町は貧しい漁民の町であるが、そこには近年食い詰めた内陸部からの難民が多数入り込み、漁業で食いつなぎ、伝統的な漁法の漁民といざこざが絶えない。 乱獲やマングローブ林の破壊で、2001年末に指定されたZRBの環境も悪化が懸念された。そこで「沿岸湿地の保全、修復及び持続可能な利用」を目的とした技術協力プロジェクトを開始すべく、2002年末に調印がなされ、その具体的な目標と中身を表にしたPDM(project design matrix)ができ、現地に滞在する長期専門家も派遣される他、短期専門家の派遣、日本での研修、さまざまな事業への協力がなされるというわけである。 カウンターパートはX国SEMARNAT(天然資源省)Y支局の配下にあるCONAMP(国家自然保護委員会)ZRB事務所。そこのフェルナンド所長は熱血漢で、このプロジェクトに副所長のヘラルドともども情熱を燃やしているという。 そこに日本から常駐の専門家二人を派遣するというわけである。また夏には向こうから5名が日本に研修に来るという。
派遣する常駐専門家の一人は昼食をともにした国際青年協力隊上がりの「ジュニア専門家」のB嬢で環境教育とロジ(ロジェステイック=兵站、後方支援)を担当するそうで、この会議にも出席。プロジェクトが開始される3月に出発するという。 もうひとりの長期専門家もあらかた見当はつけているようであるが、この時点ではわからなかった。 帰路同じ評価委員である名大の先生と新幹線に乗る。なんとB嬢は同じ環境庁OBの名大教授Ka氏の教え子だという。
そのご3月にプロジェクトは正式スタート。B嬢が出発した。また上席の常駐専門家としてC氏の派遣が決り、5月に筆者のところを訪問。温厚そうな水産のプロで中南米はなんども専門家として派遣経験があり、スペイン語もぺらぺら。奥さんもグアテマラ人だという。6月に現地に向けて出発した。 7月には向こうから5人が日本に研修にやってきて、わが大学にも顔を出した。幸い、同じY州をフィールドにしている研究者がわが同僚にふたりいて、ひとりはスペイン語も堪能な外国人研究者であるので、彼女らに同席してもらった、というか、もっぱら彼女らに相手をお願いした。 8月には第二回評価委員会が開催。C氏が着任したことやカウンターパートであるZRBの所長がフェルナンドからペペに変わること、年内にはこのプロジェクトの「運営指導調査団」を派遣すること等が報告され、約束どおり筆者も連れて行ってもらえることになった。 出張に同行する事務方はA氏のほか、本プロジェクト専任としてB嬢の後任のD嬢。彼女はやはり国際青年協力隊上がりのジュニア専門家で、A氏の構想では二年後にB嬢の後任として派遣を予定しているとのこと。 出張は12月と日程も決り(筆者は鹿児島出張がそのまえに決まっていたので前半のみ参加になった)、そのまえに第三回の国内評価委員会を11月に開催するという。もとより、優雅な視察旅行のつもりだったから、その事前打ち合わせだと思っていたら、事態はとんでもないことになっていたのだ。
(嵐の予兆)
C氏、B嬢の現地常駐長期専門家からは、新しくZRB所長に着任したペペやペペが引き連れてきたマルコたち所員がJICAプロジェクトにきわめて非協力的で、妨害やいやがらせが絶えないというニュースが入ってきたのだ。もうひとりのカウンターパートで日本の研修にも参加したJICAプロジェクトに熱心な副所長のヘラルド氏はペペから徹底的に干されているという。 ZRBの上部機関に直訴してもとりあってくれないとのことで、その意地悪、イジメの実態を微に入り細にうがった悲痛なレポートが第三回国内評価委員会直前に送られてきたのだ。 第三回評価委員会では、ペペがJICAプロジェクトの利権を漁ろうとして、個人的な策謀を図り、日本人専門家が生真面目にそれに否定的な対応をしたためのいやがらせで、日本側が根をあげて、妥協策を持ちかけてくるのを待ってるのでないか、また上部機関もそうしたペペの策謀を見抜けずに騙されているのでないか、などとA氏が報告。とにかく運営指導調査団が現地で実情を把握して適切に対応するしかないのでないかという話で、優雅な視察旅行という当初の目論見は出発前から挫折したのである。
11月30日(いざ、出発)
新幹線で東京。そこからJRで成田国際空港に向かうつもりが、列車が一向に発車しない。やがて豪雨で土砂崩れが起き、成田線は不通になり回復の見通しは立たない旨のアナウンスにびっくり仰天。あわてて上野まで行き、京成特急に乗る。相当時間的余裕をみてあったので、なんとかぎりぎり集合時間に間に合ったが、なにかこの旅の暗雲立ち込める前途を予感させるようなできごとであった。 事実、またここで新たなトラブルが発生したとの知らせを受けたのである。 短期専門家(プランクトン調査)として先行して現地に行っているE氏が、ZRBの正式許可をとらずに日本に送るべく研究資料を採取。ZRBがそれを咎め、とりわけJICA贔屓のヘラルドはペペの手前もあり、激怒。結局採取資料は廃棄したとのこと。 さて出張メンバーはJICAからA氏とD嬢、それに日本××研究所の広報課長のF氏の計4人。F氏はA氏の旧友でメキシコ人であるが、日本在住ウン十年、日本語がぺらぺらで、評価委員会にもオブザーバーとしてずうっと参加。A氏のブレーン役で、とりわけ物見遊山という夢が潰えてからは、X国側の真意を見分ける唯一の貴重な助っ人としてA氏から厚く期待されている。 ちなみに筆者以外は全員英語がぺらぺら、D嬢は帰国子女でY州には幼いときいて思い入れが深く、南米に協力隊員として駐在したこともありスペイン語もぺらぺらで、得意さは英語→スペイン語→日本語の順だと言う。 ビジネスクラスなのでVIPルームで出発まで時間待ち。さっそく前途を祝してビールで乾杯。
17時出発。これから長い禁煙の旅が始まる。 昼頃(時間が逆戻り)乗り継ぎのロス到着。とるものもとりあえず空港の外へ出てタバコを二、三本たてつづけに喫って、空港待合室に。 ここで短期専門家(コミュニテイセンターという施設を現地に建設予定であり、その設計の専門家として)のG氏およびその通訳氏と合流。G氏は四国のODA専門?の建設コンサルタントでドスの利いた低音の持ち主。通訳氏は日航メキシコ事務所OBだとか。 ロスを出発。上空からは独特の砂漠山岳が広がり、それにみとれているうちに、夕刻X国際空港到着。 チーフ専門家のC氏と、久々の里帰りになるF氏の兄弟一家が出迎え。そこから首都Xシテイに向かうが、結構渋滞が激しく、結局シテイ中心部のホテルに到着したのは9時近かった。まあ、二流どころのビジネスホテル。とりあえず荷物を置いて近くのレストランで夕食。 夕食はF氏の兄弟一家の招待ということになり痛く恐縮。ここではじめてトルテイージャ(とうもろこしの粉でつくった生の薄焼きせんべいのようなもの)の洗礼。X国ではほとんどの料理はトルテイージャに辛いスパイスと一緒にくるんで食べるのだ。
12月1日(Xシテイにてージャブの応酬)
まずはJICA・X国本部に行く。ここで本部側数名と打ち合わせしたのであるが、驚いたことにJICA・X国本部はいまだだれもZ町にもZRB事務所にも足を運んでいないし、今回も同行しないとのことで、まるで他人事のよう。現地に派遣された長期専門家が悲鳴をあげているのになにごとかと思う。
註:本プロジェクトを掘り起こしたのはJICAX国本部ではなく、日本の本部の某氏。したがってJICAX国本部は蚊帳の外に近かったらしい。某氏は掘り起こしまでで、それをA氏が引継ぎ立ち上げたとか。 A氏によると、とにかく役人が新規予算を立ち上げたり、法改正をしたりするのが勲章であるのと同様、JICAでは内容の如何を問わず、ODA案件を立ち上げるのが評価だという。 本件の場合、引継いだ時点で、内容にかなり疑問があったが、現地に行き、ZRBの所長がやる気満々だったので、意気投合。これで本プロジェクトに全力投球する気になったらしい。
在X国日本大使館に表敬訪問。一等書記官だかなんだか若い外交官が対応。なんとなく横柄そうで、一緒にきたJICAX国本部は年下の外交官にぺこぺこしとり、あまりいい気はしない。 昼食後、SEMARNAT(資源環境省)へ。SEMARNATとその外局で保護区を統括しているCONANP(国家自然保護区委員会)の本プロジェクト責任者、関係者とで会議。 通訳を介してであり、必ずしも理解できたわけではないが、JICAプロジェクトは大歓迎と口ではいいつつも、前所長のフェルナンドよりもペペを買っているようで、いささか腑に落ちない。 ようやく本日の仕事は終了。 夕食はホテル近くの韓国料理店。変な頑固親父で、メニューをみてあれこれ議論していると、これをぜひ食べろと自分の自信料理を勧める。それを無視して注文したが、持ってきたものにはちゃんと自分の自信作が入っている。まあ、確かに美味ではあったが・・・
12月2日 Y州州都Y市に向かう
9時の飛行機で、いよいよY市に向かう。10:40Y空港到着。快晴で汗ばむほどの陽気。空港にはB嬢と例のプランクトン専門家のE氏、それに通訳さんが出迎え。 Y市は人口65万、Y州の州都で、広い大通りはクリスマスの電飾が至るところにありクリスマス気分いっぱい。 着いたホテルは大通りに面しているが、近くには威容を誇る大ホテルがあり、いかにも貧弱。フロントは英語もろくに通じない(ま、筆者の英語だからか・・・)。 ホテルに荷物を置いて、さっそくZRB事務所を表敬訪問。
ZRB事務所はSEMARNATのY支局の建物の一室に間借り。さらにその一角にJICA長期専門家二人の執務スペースがある。狭い狭いとは聞いていたが、せいぜい6畳くらいのオフィスに7,8人がいて、JICA専門家の執務スペースは二畳もないくらい。海外に赴任してこれでは専門家も嫌気がさすであろうと痛く同情。 通りの向かいの食堂で昼食後、再びSEMARNATのY支局へ。支局長のルビオとZRBおよび隣接する別のRBとの全職員とで会議。 Xシテイでの会議では前任所長ヘルナンドの批判はやや遠慮がちであったが、この会議では遠慮会釈なく、ルビオもペペも批難を浴びせる。 フェルナンドは環境保全ばかりをいい、Z住民の貧困対策を等閑視し、Z住民に敵視された、ペペは住民の貧困対策=社会開発のプロだというのである。そしてJICAプロジェクトもそれに対応して、適切な軌道修正を図ってほしいとのこと。 A氏はにこやかに対応しつつも、時折口を歪めて皮肉を浴びせる。
また、長期専門家が望んだヘラルド副所長の留任に対しては、副所長のポストは兼任させるし、ひきつづきJICAプロジェクトのカウンターパートナーにはちがいないが、本務はCONAMPのGIS担当とするので、カウンターパートナー業務の責任はペペが負うとのこと。 会議後、K氏と知恵袋F氏とで意見交換。かれらの見解では、フェルナンドが更迭されたのは、ペペ一個人の策略とかでなく、まさにX国SEMARNAT、CONAMP総体の対JICAの構造ががらりと変わったということであり、それは大統領の交代―環境よりも開発重視派―にも起因しているのでないかとのこと。 その夜は日本側主宰のレセプション。D嬢が事前にJICAの課長補佐と折衝したところレセプションなど必要でないだろうと却下されたもので、こちらへ来てはじめてそれを知ったA氏が激怒、D嬢を叱り飛ばすだけでなく(とにかくD嬢への教育的指導は激烈を極め、筆者には到底できない)、ただちに日本に電話して実現させたもの。 レセプションは広い土間にテーブルを並べたX国料理店。
ここにはA氏の畏友でペペに追われたフェルナンド、それにF氏の大学時代の友人で、こちらに来て、何十年ぶりかの再会になる、Y州政府環境部門(ちなみに生物圏保護区は中央政府の管轄下にあり、州政府はまったく口出しできない)の責任者であるカルロス氏も呼んである。 ペペはZRB以外のメンバーの参加に当初驚いたようであるが、そこは曲者、何食わぬ顔で全員とにこやかに杯を組み交わし、談笑するも、フェルナンド、ヘラルドとペペ、マルコとの間はこころなしか冷ややかな風が流れる雰囲気。カルロスとF氏もひそひそ話し。つまり腹の探りあいで、なんだか、心理ドラマをみるようである。
12月3日 Z地区住民との対話1
いよいよ、今日からZ地区入りである。朝食後、何台かのクルマに分乗して出発。ペペの腹心マルコも同行。Y市の市街を離れると、見渡す限りの平坦な疎林のなかを進む。石灰岩質で養分に乏しいのか、植生も貧弱である。ところどころに小さい集落があるが、いかにも貧しそうな陋屋がひっそりと散在しているという感じである。 2時間も走ったであろうか、とくにそれまでと変わることのない景観であるが、ここからがZRBの区域だという。そこからしばらく走ると、大きな川のような水路を渡る。これがZRBの目玉、Z湾だという。両岸はマングローブ林になっている。この細長い湾はこの先何キロ(何十キロ?)も続いているらしい。 これを渡ったところにブロックでできた建物がある。これがDUMACという国際的なNGOの宿泊研修施設で、これから三日間ここに滞在する。ただし、マルコは別のところで泊まるらしい。
ここでの主たる任務はZ地区住民の各種グループより住民の本音や要望、そしてJICAプロジェクトに期待することなどをヒアリングすることである。 建物の脇の石のところに全長7,80センチに達するイグアナが日向ぼっこをしていた。よく観察するとこの建物のあちこちにイグアナが棲息している。これから三日間、ひまができたときはイグちゃん観察に努めることになる。 ここには電話がない。携帯電話も通じないとのこと。また、冷房もない。
まずは個室に荷物を置く。ベッドと、あとは電灯と天井につるしてある扇風機のみで、他のものはまったくなにもない。 ここは細長い半島の湾側に位置しているが、Zの町は外洋側、ビーチのそばにある。まずはZの町に向かう。 細長い半島の内部は大半は湿地帯や池沼になっていて、そこをクルマでつっきって5分もいくと、ごちゃごちゃした家並みがつづく集落に入る。これがZの町で、Z郡の郡庁所在地になる。とはいっても日本で言えば郡というより村といったほうが適切であろう。その村の中心に広場があり、その脇に教会と郡庁がある。 まずは郡長に表敬訪問。JICAプロジェクトを歓迎すると言ってたが、いかにも外交辞令という感じで、あまり印象はよくなかった。
そのあとコミュニテイセンターの建設予定地に向かう。海岸の道路を集落の途切れたところから数キロ行ったところである。 このセンターはJICAプロジェクトで建設するZRBの現地事務所、研究施設、ビジターセンター、住民の集会所等多目的利用を図る唯一のハコモノで、設計の短期専門家として同行したG氏が中心になってこれから測量に入ろうとするものである。
JICAプロジェクトのうち、端的に言えばペペや郡長が期待しているのはいまやこれひとつかもしれない。 そのあとさらに海岸に沿って走り、唯一の外資系ホテル「エコ・パライソ」を見学。自然保護に留意し、環境負荷を出さないのをモットーにしているとのことで、広い敷地に低層の施設は分散させている。蚊が多い海岸であるにもかかわらず、そういう趣旨からエアコンはなく、あけっぱなしにせざるをえない。蚊は誘蛾灯のようなもので対応しているという。また排水は完全処理。廃棄物もきれいに分別している。ただし、分別してだしたその先はまたまとめて処理しているらしいから、なにしていることやら。 たしかに環境負荷をめいっぱい抑えているのはわかるが、はたしてこれで採算が取れるのか? おずおずと問いただしたところ、あっけらかんとノーの答え。毎年大赤字だけど、オーナーは資産家で、赤字でも平気とのこと。つまり金持ちの道楽である。 宿舎に帰り、昼食。
ここで14時から塩田業者の意見聴取の予定であったが、連絡ミスのせいか定刻になっても来ず、ヒアリングは延期。時間が余ったので、Zの街まで徒歩で散策。道路の両側は湿地帯や池がつづく。池には立ち枯れしたマングローブが多数見られ、ちょっと上高地大正池を思い起こさせる。このマングローブ立ち枯れ現象は道路をつくったことによる水路の遮断ではないかとされ、原因究明と対策がPDMのひとつになっている。 街に着く。行きかう人々の半数は裸足で、やはり貧しいのだな、と実感する。帰路はタクシー、といっても筆者のクルマがデラックスにみえるほどのポンコツで、よくエンジンがかかるなというような代物。 16時、DUMACの会議室でいよいよヒアリング開始。最初は漁業組合のひとたちの意見聴取。主として内湾のエビ漁業が中心らしいが、麻産業の衰退で食い詰めたひとたちがセレストンに住み着き、漁業をはじめたため、資源枯渇が目に付くようになり、漁獲量を自主規制しているという。 そして州政府社会開発局の援助でRBの区域外のエヒード(共有地)では、エビの外来種の大規模集約養殖の開始のため池を掘り出したこと、区域内でも在来種の養殖にとりかかりはじめたとのこと。 A氏はJICAプロジェクトの一環としてエビ養殖環境モニタリングという名目で短期専門家を派遣して、養殖技術の指導を行う腹を決めたようである。 また、こんごは、エコツーリズムの導入を図りたいので、JICAプロジェクトで助言や援助をという。明日、その現場を案内してもらうことにする。
これで本日の仕事は終了。 夕食後、部屋に戻り、ちびりちびり持参の焼酎をなめる。
12月4日 Z住民との対話2、晩飯騒動
今日も快晴。本日は午前中昨日面談した漁業者グループとエコツーリズム対象候補地を案内してもらい、午後からはホテル・レストラン業者ついでボート業者、さらにエヒード(共有地)内農業者、さいごに教師グループから意見聴取の予定で、朝から日程はぎっちり。 9時、宿舎横の船着場から二台の原動機付ボートに分譲。細長い湾を湾口のほうへ向かう。 マングローブ林にはさまれた湾には大小さまざまな水鳥が飛び交い、或いは水面にとまり、のどかな風景。 数キロ?進んだ地点で湾に注ぐ幅5メートルほどの川を遡る。入り口にはボート進入禁止と書いてある(もちろんスペイン語で)。流れはほとんどないので、川というより細長い入り江かもしれない。 薄暗い密林の中を蛇行しているのだが、ときおり大きな鳥が樹上にいて、バードウオッチャーなら大喜びだろう。ときおり、ワニも出現するらしい。 数キロ?遡った地点で、一旦停船。ここからは浅くなり、原動機付ボートではムリということで手漕ぎボートに乗り換える。
しばらく細い川をのぼっていくと突然目の前が開けた。そこは湖のようになっており、突き抜けるような青空に鳥が舞っている。周囲に人工物は一切見られず、別天地のようなところである。タツノオトシゴが泳いでいるというか浮遊しているのもみつけた。 ここにちょっとした休憩施設をつくり、生簀に魚を放ち、釣りをさせたいとのこと。いろんな権利関係等があるらしく、どの程度実現性があるのかわからないが、それらをクリアできれば、JICAのほうでサポートしてほしいとのこと。 自然破壊の謗りを招かぬよう、規模やデザインには注意を要するが、フィッシングのみならずバードウオッチングも楽しめそうで、期待がもてる。なによりも、カネではなくそのためのノウハウを知りたいという姿勢に好感がもてる。 A氏も同様の感想をもったらしく、短期専門家の派遣およびかれらを日本に呼んで研修を行うことを考えているようである。 そのあと再び湾に戻る。対岸の森の中にペテン(湧き水、石灰岩地帯でありほうぼうに湧き水があり、これをペテンとかセノーテとかいうらしい)までの遊歩道を建設中というので見に行く。 資材は行政が提供し、作業は地元がやっているとのこと。ペテンまではいける状態ではなかったので、引き返し、船着場に。A氏はこれに関しても要望が強ければなんらかの支援を行う心積もりらしい。
11時、こんどはDUMACの会議室でホテル・レストラン業者からのヒアリング。 ホテルとはいっても昨日の「エコ・パライソ」のようなものでなく、Zのビーチのそばに何軒かある、民宿並みの貧相なホテルやレストランの経営者5,6人。 口々に州都Yからの日帰り客が多く、ほとんど儲けにならないと泣き言。メニューに英語を併記するとか、他国料理もメニューに加えるとか、共同でなにかイベントをやって集客に努めるとかの努力が必要であり、そうした基盤のうえに立って、例えば共同でビデオを作成するとかの事業であれば、JICAプロジェクトで支援するとA氏。 つぎは観光ボート業者である。DUMACの道路を隔てた反対側のターミナルセンターで公聴会を開催。4業者とその従業員で30名ほど集まる。
この湾の一部はフラミンゴの採餌場になっており、マングローブーフラミンゴ見学の観光客を狙った観光ボート業者が数社いるのだ。文化庁の免許が必要で、文化庁はそのあがりの一部を上納させているとか。
JICAプロジェクトの趣旨を説明し、環境保全と生計向上に役立つような事業のお手伝いができれば幸いだ、例えばツアーガイドの研修やガイドブックの作成などみんなで一緒に考えたいとK課長が発言したところ、ボート業者のひとりが立ち上がり、アジテーション。 曰く、Z湾の汚濁はひどくなっている、その原因はわれわれ観光ボート業者にある(お、なかなか殊勝だ)。現在の2サイクル船外機だと騒音もひどいし、オイル漏れもある。これを4サイクル船外機に変えることによって、静穏と水質保全が可能になる。しかるにわれわれはカネがない、よってJICAがそのカネを出すべきである(なんでや!)。 これに対し、A氏は、個々の業者に直接資金援助するようなプロジェクトでないと拒否。何回かの激しい押し問答の後、2/3が席を立つ。JICAプロジェクトなんてカネをくれないのなら必要ないというところか。 それでも1/3くらいは残って話を聞いていたので、成功とのA氏の弁。
それにしてもボート業者はセレストンではもっとも裕福な連中で、アジをしたオトコはつぎの郡長の有力候補らしいから、あきれかえる。 公聴会の様子を見にきたマルコはその退場した連中に取り囲まれて激しく口撃されているが、中身まではわからない。 そのあとエヒード(共有地)の農業者たち。町外れにあるかれらの集会所兼作業所に赴く。マルコと一緒に、スーツに身を固め、ハイヒールのX国外務省の女性官僚も同行。かれらは遠隔地の痩せた土地を開墾しているらしい。集会所は屋根と壁があるだけの建物で、土間に立って話を聞く。 すくなくともコミュニテイセンターができれば、もう少し快適に集会ができることだけはまちがいない。 かれらもカネよりは技術援助というか、ノウハウを教えて欲しいとの意向のようであり、A氏はこれも支援の対象と考えたようである。
本日のさいごはDUMACに戻って教師のヒアリングである。ふたりの小学校だか中学校だかの教師がやってくる。いずれも女性で、ひとりは教師の大ボスらしい。 環境教育が重要だ、われわれは一所懸命やっているが上層部が熱心ではない、日本でも環境教育の実情を学びたいので、日本での研修に参加させてもらえることを期待している、と要は日本の研修に参加させろのオンパレード。 A氏はこんな連中を日本に呼んでもしかたがないと、適当にあしらって、本日のヒアリングは終了。ま、各学校にビデオ装置を設置してやるかとK氏。
さて、食堂に行くと、マルコと外務省女性官僚、それに先ほどの教師ふたりが真ん中にでんと陣取っている。マルコらは宿舎は別だし、夕食の予約もしていない。しかたなく、S嬢だったかが、われわれは食事なので、席を空けてほしいと伝えてようやくメシにありつける。このことが翌日大騒動になるとは夢にも思わなかった。
12月5日 Z住民との対話3 そしてZ湾船上視察
昨夕、マルコらが食堂に陣取っていたのは、当然JICAが食事をだしてくれるものと思っていたらしい。赤っ恥をかかされた、きわめて非礼であると在X国日本大使館だか、JICAX国本部だかに強い抗議があったとのニュースが入ってくる。A課長は断固無視と腹をくくるが、JICAX国本部は相当泡食ったようである。
さて、本日はZ地区最終日である。 まずは塩田・アルテミア(小エビ)養殖の現場視察。細長いZ半島の中央部は湿地帯や湖沼が断続的に分布している。そうした湖沼のいくつかは乾期になれば自然に塩が沈殿するので、それを採取しているのだ。 悪路を通ってそうした天然の塩田を見る。 確かに湖岸には累々と塩が溜まっている。日本だとこの景観自体が観光資源になりそうだ。つぎに、塩田業者の一部はさらにこうした湖でアルテミア養殖もやっているというので、それも視察。これも物珍しい光景だ。
再びDUMACに戻ってこんどは主婦グループのヒアリング。 彼女らはいくつものグループに分かれて、行政(州政府社会開発庁およびSEMARNAT)の援助で生活向上プロジェクトを開始したらしい。そのうち内陸部で養鶏をやっている主婦代表、保護区の外のエヒードを開墾して花を作っている主婦代表から話を聞く。 彼女らの貧困から抜け出そうとする意欲はすごいが、いかんせん、無知すぎる。 養鶏は行政側から支給される屑ヒヨコを飼育するらしいが、鶏には消化するために砂嚢というものがあり、そのため貝殻のつぶしたものなどを時折食べさせなければならないのだが、その程度のことも知らなかったし、花のほうも同様、栽培技術も無知だし、出荷だとかもなにも考えてない。
つまり資材を提供するだけでなく、技術面、ソフト面でのノウハウが必要なのだ。このノウハウの伝授あたりはJICAプロジェクトの出番とA氏は考えたようで、中南米に派遣されている農林業の専門家を長期出張させればいいという。
以上で聞き取り調査を終える。A氏の頭の中では快刀乱麻を断つかのごとくJICAプロジェクトで支援するもの支援しないもの、支援の中身などがもうできあがったようだ。
昼食はDUMACではなく、ビーチのレストランに行く。しかしメニューはやはりX国料理ばかりで、トルテイージャを使う。もうトルテイージャは飽きた! ちょっとした観光地らしく、外国人の姿も多い。浜辺では間近にペリカンが群れをなして飛んでいるのが珍しい。いわゆる漂着ごみがまったくないのもいい。このビーチは延々とつづいている。マングローブとフラミンゴの内湾だけでなく、このビーチや半島内部の湿地帯、湖沼もうまく活用したエコツアーの企画なども可能ではなかろうか。 午後われわれはZ湾のボート視察。C氏とG氏のふたりの専門家はコミュニテイセンターの設計、施行や測量に伴う伐採の許可等についてペペと調整するということで、一足先にY市に向かう。 Z湾の奥に向かう。湾の幅は数百メートルといったところで、大河を遡るという印象である。両岸はすべてマングローブ林で、人工物は皆無。透明度はよくないが、これは汚濁というより自然現象であろう。水深は浅く、せいぜい水深50センチぐらいしかないなかを、縫うように走る。
やがて浅瀬に数百羽のフラミンゴが止まったり舞ったりしているところに到達。この湾は繁殖場所でなく、休憩・採餌の場だそうである。他にも湾のあちこちにいろんな水鳥が舞っている。
ここから戻り、途中マングローブ林の一角に停船。数百メートル小川沿いに遊歩道が、小川の源泉のペテン(湧き水)まで行っている。森の中のペテンは直径数十メートルにすぎないが、きわめて澄んでいてさわやかである。その一角で小さなワニ(アリゲーター)をみつけた。 DUMACに戻り帰り支度。イグちゃんともこれでお別れである。
再び、Y市のホテルまで戻る。C氏、G氏とここで合流。ペペはコミュニテイセンターの工事は自分の知り合いの業者に請け負わせろと主張し、それを拒んだので、本格的な測量に入ることはむつかしくなったとのこと。 今日はトルテイージャではなく、中国料理。隻腕のJICA雇用の運転手ロドリゴも一緒である。美味しかったが、残念ながらここはノン・アルコール。
12月6日 遺跡ツアーに
今日は土曜日。短期専門家のE氏は一足先に帰国。G氏はコミュニテイセンターの設計についての屋内作業。C氏、B嬢は今日は自宅で休息。 A氏はJICAフアンのフェルナンド、ヘラルドと、F氏は州環境局のカルロスとそれぞれ旧交を温めるという。当然のことながら、それは名目で、実際は本プロジェクトのX国側の本音、裏事情を探るとともに、こんごの対応策を協議しにいったのである。 筆者はA氏の配慮でD嬢と一緒に優雅に遺跡ツアーを楽しむことに。今日も絶好の晴天である。ツアー会社のマイクロバスに乗り込む。他のホテルの数名の客も一緒である。Y市からZ地区とは逆方面、内陸部に向けて走る。 こちらも同じ、まっ平らな潅木林のなかをひたすら走る。ところどころに貧しい家が立ち並ぶ集落をいくつか通り過ぎるぐらいで、車外の景色はほとんど変わらない。
やがて××という内陸部の遺跡公園に到着。おおきなゲートを入場料を払ってなかに入ると、ふたつにわけられた。スペイン語ガイドと英語ガイドの組にわけられ、当然英語ガイドの組に入って出発。 ここはマヤ文明の中心だったらしく、大ピラミッドが聳え立っているが、ほかにもいくつもの小ピラミッドや球技場その他の遺跡が点在している。 悲しいかな英語ガイドの英語もわかるのはせいぜい1/3で、結局はD嬢の通訳に頼るしかない。
森のなかには聖なる泉「セノーテ」がある。直径百メートルくらいあるのではなかろうか。ペテンの大規模なものなのだろうか。 6500万年前巨大隕石がカリブ湾に落ち、恐竜が絶滅したという説がある。恐竜絶滅はともあれ、巨大隕石が落ちたことは間違いないらしい。それで空中に飛散した岩石が落下してできたのがセノーテだという説があるとのこと。 高さ数十メートルの断崖のうえからおそるおそる覗き込むと底に水面が見える。 そこから戻り、大ピラミッド登頂。上からは深い森林のなかに十以上のピラミッドや遺跡が点在するのが望め、その先は360度見渡す限りの平らな森林がどこまでもつづいているのに圧倒された。
帰り、大きなドライブインのようなところに立ち寄り、バイキングの昼食。 帰路のマイクロバスは筆者ら二人のほかはバックパッカーがひとりのみ。このオトコがしつこくD嬢に話しかけ、D嬢もまんざらではない様子。Y市の入り口のあたりのホテルで下車したが、なおもD嬢に連絡先を聞いていた。つまりナンパされかかったのである(笑)。あとで聞くと、プエルトリカンだとか。筆者の連れと知っていながら失礼極まりない。 この夜は大通り横のイタリア料理店でパスタを食いながら、クリスマス見学。大通りはクリスマスのデコレーションでいっぱい、いたるところで踊りや寸劇などをやっている。まだ、本番まで二週間以上あるのに、気が早すぎ?
12月7日 州都で最後の晩餐
今日は日曜日。朝からホテルのロビーで作戦会議。とはいってもA氏がこんごのプロジェクトの対応やPDMの改定案を滔滔と述べ、F氏がときどき口を挟むほかは、まわりはそれにうなづくだけ。D嬢を叱りとばしながら、それを英文に仕上げさせる。 要は、PDMに関しては、向こうの要望も取り入れて環境保全中心から地域開発や今回住民から聴取したなかで納得のいくものも取り入れるよう修正する。もとのPDMで重視していモニタリングに関しては向こう側はほとんどやる気のない状態なので、シフトダウンするしかない。5月にペペとルビオを日本に呼ぶというアメをしゃぶらせることで、しばらく様子をみる。JICAプロジェクトへの対応がそれでも変わらない場合は中断も視野に入れるが、コミュニテイセンターだけは完成させたいし、中断した場合でも、今回のヒアリングで要望のあった件に関するミニプロジェクトは立ち上げたい。現地駐在長期専門家は(カルロスのいる)州政府とのコンタクトを強めて、ZRB現体制からくるストレスを発散させろというものである。 カルロス氏がK氏に「嘆くことはない、いまの状態が特殊なのでなく、フェルナンドの時代が異常だったのだ、地域社会はカネしか頭になく、JICAが付き合っているのはすべて黒い天使たちだ」と言ったという。ただし、カルロス本人は別として州政府自身もそうなのかは定かでない。 ペペもマルコも環境NGOあがりだが、途上国ではNGOで金集めのコツを覚えた連中が官僚になって、さらに私財をふやすのが、常套手段だという。
また、こちらで知ったのだが、アメリカが2億円規模で環境調査・修復の支援をZ地区で行うことが決まったので、日本のJICAプロジェクトに対する興味が急速に薄れたという事情もあったのであろう。そうした諸事情が、不幸なJICAプロジェクトのスタートになってしまったといえそうである。 筆者は土産物を購入せねばならないというと、街の中心まで行けば土産物屋があるというので、みなで散策することに。X国名物はなんといってもブラックオパールだが、残念ながらここでは産せず、土産物屋に皆無。しめしめと別の物で代替。 昼食は大学横のレストラン。帰りは観光客向けの馬車に乗って帰る。
夕食はA氏、F氏、D嬢と一流ホテルのレストランへ。筆者の奢りである。なんと言っても、筆者は明日敵前逃亡するのだから、そのお詫びの印であるし、D嬢には昨日付き合ってもらった恩義もある。
12月8日 敵前逃亡、日本に!
朝食後、みんなに敵前逃亡を詫びながらロドリゴの運転でY市を去る。 みなはこれから眦を決してぺぺやルビオとの会合に臨み、さらにXシテイでSEMARNAT,CONAMPとの調整という難事業が13日までつづくのだ。 Y空港からひとりロスに向かう。海外での一人旅は心細い。乗換え地のX国際空港で危うく、ロス便に間に合わなくなるところで、泡を食う。ロスでは空港ホテルから一歩もでることなく一泊し、翌朝成田に向かう。帰宅は12月10日であった。
蛇足―プロジェクト現況
そのごのプロジェクトの動きであるが、X国側との妥協、調整はなんとか成功した。とりあえずはこれで様子をみることにしたとのこと。
1月、帰国報告会。 ようやくZRB事務所の移転ができ、JICA専門家の執務スペースも広くなって、ストレスも減少したこと、ペペとJICA専門家の仲も険悪な雰囲気はだいぶ和らいだこと、2月には環境教育のC/P研修でZRBだけでなく、州政府のカルロスも来ること、5月にはペペとルビオが研修に来日すること、コミュニテイセンターの建設が軌道に乗り出したこと、などが報告された。 ただ、本質的な問題は一向に解決されたわけではなく、来日研修とかコミュニテイセンターの竣工だとかのアメがなくなれば、また、同じ問題が生じる恐れがあるし、ペペ、マルコ、ルビオといった個々人の問題ではなく、SEMARNAT、CONAMPの構造的な問題も絡んでいる。とりあえず、ここ半年か一年ほどは様子を眺めて、そのごの対応―中断も含めてーを考えるしかないということとなった。
4月、JICAの機構改革と人事異動。ここまで陣頭指揮してきたA氏は担当課長から外れた。課長より格上のスタッフ職だから栄転なのだが、陣頭指揮も仕切ることもできない立場にたったA氏はさぞがっくりきているのではないだろうか。 このプロジェクト、この先どうなるのか、まだまだ予断は許さない。