My Mineralogical September Song '93
― 故・櫻井欽一先生の霊前に捧げる
この9月には三度も採集に行った。筆者にとっては画期的な記録である。ということは、三度の採集品を整理しなければならないということだし、それを黄色い罵声に堪えながらどこかに収納する場所を探さねばならないということである。また別にだれに強制されたわけでもなく、熱心な読者がいるわけでもないが、慣行として三本の紀行文を書かねばならないということでもある。 紀行文のほうは、勤務先で仕事をしているようなふりをして、キーを叩いていればいいはずだったのだが、あいにくとわが研究所はここのところ二次補正予算(48億円要求中)だのなんだので珍しく多忙。おまけにふってわいたような「ニセ札事件」(ご存知ないかたはそれで結構)が発生し、その後始末に大童ということで、紀行文のほうは結局放置したままとなった。いまとなっては詳細な紀行文を書こうにも記憶のほうが薄れてしまった(筆者は現場ではメモをとらずに直接灰色の脳細胞に焼き付ける主義なのである)。 ところが10月6日、益富先生亡きあとのアマチュア鉱物界の最長老櫻井欽一先生の訃報が突然飛び込んできた。先生が六十年に亙って個人で主宰されてきた鉱物マニアの会である「無名会」の60周年記念大会を翌週に控えての逝去である。 そこで三本の紀行文を含め、鉱物にまつわるこの9月から10月初旬の記憶をまとめて、わがSeptemberSongとし、櫻井欽一先生の霊前に捧げることとし、山積する研究所の仕事をなげうってキー叩きに精出したのである。 それにしても今年は3月益富先生、4月益富夫人、8月荻原先生、中尾潮忍師と訃報が相次ぎ、石以外でも8月には富山の義姉と神戸の友人伊藤光一氏が亡くなるなど、<無常>感が身にしみる年であった。
9月5日 鉱物同志会例会
池袋のサンシャインで開かれた。「分光器の鉱物鑑定への応用」といったような内容の講演だが、眼目は休憩時間の情報交換。これが無名会だと終了後の有志(というか余人組の)茶話会が目的になるのだが、同志会は終了後役員会をいつもやるので、平会員の筆者はとぼとぼ帰らざるをえない。堀会長から「水晶」投稿原稿は長すぎるし多すぎるので二回に分載するとの通告を受ける。
9月12日 無名会例会
恒例の夏休み報告会。豪雨の鹿児島訪問談で茶を濁す。荻原、中尾訃報を櫻井先生から聞き驚く。終了後いつもどおりK,M,学生氏の余人組でダベる。
9月18日 岐阜県洞戸、神矢洞採集行
(余人組ー学生氏が欠で誤認組にならなかった)
前夜、雨中の京王北野駅に集合。一路、洞戸に向かう。筆者以外はみな初見である。当然筆者が案内役ーということにはならない。なにしろ筆者行ったのは三十数年まえの話なのである。 明け方現地到着。かつては沢を下の県道から延々とのぼったのだが、いまは新しい林道ができていて、上で沢を横切っており、そこから透輝石で有名な杢助坑までわずか十分程度でいける。 坑口のまえのズリでさっそく透輝石の美麗な分離晶を一個採集。幸先よしと思ったのも束の間、あとは一向にでてこないし、雨足は強くなる一方。そこで坑内採集に切り替えることにするが、筆者はライトを持ってきていないので小判鮫のようにだれかとくっつかねばならない。K老にすがることにする。 さて、昔這って歩くほどの狭い坑だった記憶があるが、意外に広い。それはいいが、かつてこの砂を持ってでて選るといくらでもきれいな透輝石がとれたのだが、どうも様子がちがう。 坑内の水溜まりで砂をふるってみたのだが、一向にでてこない。ライト持参の某氏はルーペでじっくり眺め、あるあるといっていたが、ルーペでしか確認できないようなものは論外である。要するにこの三十年間にみんな選って選って選りまくった残渣をわれわれはみているのだ。 さすがにみなバカバカしくなったのか、坑外採集に切り替える。筆者が寄生しているK老は鉱山屋のせいか、ただ単に穴が好きなのか(スケベ!などというなかれ、防空壕がかれの原体験なのだ)一向に坑をでる気配はなく、さらに奥に奥にと進んでいく。ライトがないとでようにもでられないから筆者もつきあう。ようやく飽いたのかでることにするが、行きがけの駄賃に昔透輝石のでたとおぼしいあたりの壁を叩き、フルイにいっぱいにしてもってでる。 さて、坑外にでたのだが、依然として雨が激しいし、M氏もW氏もどこへ行ったのか姿がみえない。持ってきた土砂を沢水で洗ったところ細かいながら透輝石の結晶がいっぱい付いた小塊が結構あるでないか。それから坑内へ何往復もし、M氏、W氏、さらにこの日欠席した学生氏用の分も確保したのである。 そのM氏、W氏であるが、少し下流で一所懸命にフルイで川砂をふるっていた。恵那のトパズの味が忘れられないのであろうが、エネルギー効率はさほどよくない。筆者もそのやりかたを試みたが、いずれにせよ三十年まえ、あのGOODOLDDAYSのものと比較にならないから、すぐ断念する。 さて、それにしても雨中の採集は消耗(蛇足だがショウコウと読むのが正しい)が激しく、昼前にひきあげを開始した。
<後日譚>
1、坑内から透輝石付き小塊をいくつか持ち帰ったのであるが、実体顕微鏡でみると1、2ミリの白色四角薄板の結晶群晶が付いているものがでてきた。ぶどう石の結晶に違いない。現場ではルーペが雨で役に立たなかったこともあり、気づかなかったものであるがなかなかいいもので、これをめあてに探していればもっと良品が採れたろうにと、ちょっと悔やまれる。
2、さて、ここのぶどう石結晶は昔山田滋夫が採集し、「地学研究」に発表したことがあるのを思いだし、古文献をひもといてみた。思いがけないことに、四角薄板でなく、六角厚板結晶とあり、大きさは5ミリに達するとある。9月末にかれの家に訪問する機会があり、どういうことか詰問した。かれはニヤッと笑って、一番最初に六角厚板のものが採れ、それを「地学研究」に報告したのだが、それから以降はどういうわけか四角薄板のものしかでなくなったといい、六角厚板5ミリの群晶を自慢気に取り出したのであった! 林道のところまででた。「日本式石英」(「水晶」とはいいがたい)や珪灰鉄鉱結晶が産出した梅保木坑はここから沢を降りていけばいいのだろうが(それにしても「鉱物採集の旅」のガイドはここ洞戸に関する限り不親切。わざわざ到達させないように書いているとしか思えない)、雨中薮漕ぎする気にもならず、パスする。 次なる目標は洞戸鉱山杉原坑である。昔の記憶では、県道の脇に大きな広場があり、そこにズリ山が広がっていたはずだ。かつてそのなかからベスブ石や濁沸石を採ったのだが、一向にそんな広場は見あたらない。それもそのはず、別荘分譲地に姿を替えていた。これでは採集不能だ(もっとも後に聞いた話では、分譲地のそばの林地を掘ったくればいまも採集できるという。紳士のやる採集の姿ではない)。 杉原坑の県道を挟んだ反対側の河原にはスカルンの露頭があるという話を聞いたことがあるので、そこに向かう。河畔に突き出した露岩に行ってみると石灰岩で、スカルン鉱物は目に付かない。断念しようかと思ったのだが、W氏が薮をかき分け上流に遡っていき、ついに発見した。ざくろ石とベスブ石が主たるものだが、大騒ぎするほどのものでない。ボロボロに風化したベスブ石塊には空隙に面して結晶面がみえるものがあり、露頭を突き崩してみたが、一向に空隙があらわれない。要するに天水でところどころに嵌入している方解石が溶けて空隙ができたものだったのだ。 さて、ようやく雨はあがった。もう一箇所、M氏の要望で神矢洞というところの鉛・亜鉛の旧坑に行くことにする。「鉱物採集の旅」にでているのだが、マンガンざくろ石、それもただのマンガンざくろ石でなく、亜鉛を含んでいるものが産出するというのである。オーナーのW氏は鉛・亜鉛の旧坑というのに惹かれたのか(氏は鉛・亜鉛の二次鉱物に目がない)さっそく乗る。だが、まずは腹拵えだ。ところが食堂が一向に見つからないし、パンを売ってそうなところも見あたらず、みなあせりにあせる。 それでもどうにか一箇所喫茶兼食堂を見つけ、遅い昼食をとる。 さて、神矢洞の旧坑のズリは簡単に判った(といっても坑口はわからなかった)。 ざくろ石はちょっと注意して探せばいくらでもでてくるが、およさ美麗とか粋とかいうものとは程遠い小さい粒状のものである。一方、ひょっとすれば、と思った鉛・亜鉛の二次鉱物だが、方鉛鉱、閃亜鉛鉱の塊状鉱は点在しているのに、まったく見あたらないのはいささかがっかり。 筆者は帰り間際、白色母岩のなかにレンズ状に陶土のようなものがあり、そのなかに鮮やかな粒状の紫石英が多数あるのに気づいた。色こそ粋といえば粋だが、残念ながら石英であって水晶でないのが致命的。 わが家にたどりついたのは深夜、そんなわけで労多く鉱すくなかった洞戸採集行は終わった。みなはがっかりしたかもしれないが、筆者は懐かしい青春の追憶の旅をさせてもらったわけでW氏に感謝、感謝。
9月23日 山梨県乙女鉱山採集行(誤認組+小菅氏)
洞戸鉱山行の車中、W氏から耳寄りな話を聴き、みな色めきたった。W氏は筆者のような怠け者と異なり、誤認組以外の単独行も数多くこなしている、というかW氏にとっての誤認組採集行は息抜きといっていい位のものなのである(と推察している)。そのW氏が乙女の露頭でライン鉱を見つけ、それがまだ残っているというのだ。乙女名産というか日本名産のライン鉱、いまでも時折古いズリから拾ったという話を聴くことはあるが、露頭から採ったという話などついぞ聴いたことがないからだ。 そこでさっそく行くことにした。今回は学生氏も出てきたし、長野に転勤したファイター小菅氏も現場で落ち合うことになっている。 前日深夜に京王北野駅に集合し、出発。車中でW氏からライン鉱の頒布をありがたく受ける。林道の乙女鉱山分岐点入り口に着いたのはまだ夜明けというに程遠い真夜中で、仮眠というか十分の睡眠をとる。 小雨のなか、夜明けと同時に出発。かつての鉱山道は荒れはて、半ば薮と沢になってしまっている。筆者は15年ほどまえ光川氏と来たことがあるが(そしてかれだけが巨大な日本式双晶を拾った!)、そのときの面影はほとんどない。記憶では平坦な道路だったような気がしていたのだが、結構下り坂である。したがって行きは比較的楽だったのだが、帰りのことを考えるといまから気が重くなる。 とあるカーブの地点からW氏が急斜面の道なき道を降り出す。はるか下に川が望める。ようやく川まで降りられた。そこから少し下ったところが現場である。河原に巨大な露岩があり、その石英脈の一部になるほど5、6センチほどのライン鉱の塊が表れており、その少し上に重石華をまぶした灰重石の同様な塊が表れている。 ただ足場が悪い。ここで採集するには邪魔になる巨塊をいくつか除去せねばならない。W氏の指示下、流木をテコにしてその重労働に取り組む。ようやくその作業を終えたのだが、もはやエネルギーの半ばは使い果たしたかの感がした。 さて、いよいよこの露頭にとりかかる。露出している部分を大きく掘るのは困難そうだし、ここを欠かすだけだと二人もいれば十分である。この続きがないかと、いくつか別のポイントを探ってみるが、残念ながらタングステンの匂いはしない。 筆者が若さとボランテイア精神を丸だしにして、ここの作業主任を引き受け、他の諸兄は各方面に転進を図る。 ようやく作業を終え(この奥の方にもっと続くという期待もあったのだが、それは楽観的すぎた)、他の方面に向かう。 もう少し先に巨大な坑というか穴が開いている。この坑の底の土砂をバケツで川まで運んできてフルイで洗うと小さいながら多数水晶がでてくるというのでK老がその作業に取り組んでいる。W氏がさらに先に行くと旧坑のズリがあり、うまくいくとライン鉱が拾えるという(W氏の乙女についてのうんちくはすごい。乙女のプロで、「乙女殺し」の異名をとるのだ。M氏の「逆タマ狙い」やK老の「ババ転がし」とえらい違いだ)。学生氏が金魚の糞のようについていく。筆者も心動かされたが、川の中を徒渉せねばならないし、結構流れも早く、水深も深そうなので断念し、K老と老・中年コンビで行くことにする。 かつてN氏やKo氏はここで日本式双晶(とりわけN氏のものは十センチ強だったという)を採ったというのだが、われわれのものはせいぜい2、3センチ以下のものばかりで、日本式はおろか両頭もない。それでも、最後一本だけだが坑内で太さ長さとも5センチ程度のものが得られた。残念ながら結晶は一部欠けている。平板状の水晶が多数付着しているので、ひょっとして日本式がと、思ったのだが、そうは問屋がおろしてくれない。 遅れてきた小菅氏はライン鉱の露頭近くの崖の雲母脈を掘っている。ここに埋没している水晶の表面にアナテースが付いているというのだ。 W氏、学生氏も戻ってきた。W氏はしっかりとライン鉱を一塊拾い、学生氏に贈呈したそうだ。なかなかいいものだ。筆者も行っていれば、年功序列でこれが筆者のものになったのにと、いささか口惜しい。 さて、全員集合となったので、筆者が作業主任として苦労して欠かしたライン鉱、重石華(みな小さいカケラになってしまった)の分配。ジャンケンで勝ったものから一個ずつ取ることにしたのだが、ライン鉱が6位つまりドンケツ、重石華が5位、あんまりだ! 筆者とK老が坑内の土砂からふるって採った水晶のほうもみなに分配することにしたのだが、こちらはジャンケンで争うほどのものでないというので、適当に分配する。 さあ、雨足がまた激しくなる。さっさと帰路に向かう。急斜面ののぼりでまずあごをだす。旧道にでたあと、遺跡探訪とばかりに鉱山事務所のところまで行ってみる。百メートルも行かぬうちに廃虚となった事務所が現れた。事務所だけでなく、周辺は荒れ果てており、かつての面影はまったくうかがえない。 いよいよ帰りである。意外というか、当然というか、上り坂になった廃車道を雨の中えんえんといくのはほんとうに疲れる。ほうほうのていでクルマにたどりつく。まだ時刻は昼になったばかりだが、はやばやと帰路につくことにする。小菅氏はこんな時間に採集をやめるのははじめてだという。若いというのは素晴らしい。 小菅氏と別れて帰路についたのだが、恵林寺のそばの信玄なんとやらいう土産物屋に立ち寄る。ここでは昔でた乙女の両頭水晶を売っているというのだ。なるほど小さいものは一本200円からある。ホワイトデイ用に何本か買い込む。 以上で全行程終了。Wさん、お疲れさま、と感謝して北野駅前で下車。かくて、まだ宵のうちにわが家にたどりつくことができた。
9月26日 愛知県石塚峠 採集行(Y(京都)他と同行)
さて、乙女に行った翌日の24日、筆者は女房と富山へ行った。24、25日と夏に亡くなった義姉の法要やその他の雑用があったのだ。一方、27日には神戸で或る会議にでることになっていたから、論理的、経済的にいえば東京に帰らずに、京都に行くべしである。となると、空いている26日の日曜日をいかに有効に使うかだ。そこで京都のYにどこかに連れていってくれるよう要請していたのだ。当初、兵庫県下をまわるという話だったのだが、25日の夜、京都に着いてY宅に寄った際、石塚峠で素晴らしいマンガンざくろ石がでているらしいから、そこに行こうと急遽予定を変更したのだ。ところでYは筆者が紀行文を書くなら連れて行かないと恫喝したことがある(3月の河津採集行)。今回はとくに注文は付かなかったものの、同乗させてもらう身としては、やはり自主規制して、ごく簡単に述べるのみとする。 早朝、Yのトラックで京都を発ち、中京の(神)氏宅に立ち寄る。かれが案内者なのだ。見本をみせてもらう。なるほど、素晴らしい。(神)氏とかれの伴侶(というのかどうか正確にはしらない。表現が難しいので、第一行目では「Y他と同行」でごまかした)が乗用車で先導する。 峠の手前左側が大きい採石場になっていて、かつてのマンガン鉱山の鉱床ごと採石しているらしい。日曜だが操業中なので、一応断りを入れてから、採集にとりかかる。イメージがだいぶ異なった。Yの話では道路工事のところということだったのでマンガンざくろ石の付いた手ごろな大きさの石を(ハンマーなど使わず)道路脇から拾えばいいと思っていたのだ。正確には道路工事用砕石のための採石場だったのだ。したがって積んであるのは巨塊、大塊ばかりで、これから割り出さねばならない。マンガン鉱の堅さ粘さには定評がある。大ハンマー、玄能が必需品だし、筆者のような文弱の徒にはかなり辛いものがある。しかし、(神)氏の伴侶?など元気いっぱいだ。なにしろ、先日来て足の指を骨折したから、その復讐戦だといってビッコをひきながら、ハンマーをふるっているというのに、男児たる筆者が逃げ出すわけにいかない。 その成果であるが、採集できたのは美麗なマンガンざくろ石多数の他、特筆すべきものとして1、2ミリの八面体の硫砒ニッケル鉱の結晶(と(神)氏は言っていた)がある(現場では気づかなかったが家に帰ってからじっくりみれば結構美しい結晶が1、2でてきた)。さらにロードン石の結晶。ぎらついたアラバンド鉱。金属鉱物でもっとも目につくのが閃亜鉛鉱だがちゃんとした結晶は見あたらなかった。他に磁硫鉄鉱もみられた。(神)氏は輝水鉛鉱も採集していた。光沢のいい板状結晶の金属鉱物もあり、X線でチエックしてみたところパイロファン石であった。同様の光沢で微小な柱状結晶もえたが、これがパイロファン石かどうかは定かでない。個々の鉱物についての記述は筆者がするのはおこがましいので省略。いずれ(神)氏あたりがしてくれるのを待とう。 途中、採石場のオジサンたちがなにしにきているのかと、見物にきた。そのうち、面白がって自分達も採集をはじめだした。山に積まれた表面の石を探していたのだが、もうめぼしいものはなくなってきた。そこでオジサン達が、じゃあ、山をひっくりかえしてやろうといって、ブルでひっかきまわしてくれた。おかげで素晴らしい、法花寺野を優に凌駕するざくろ石の美品を採集でき、ホクホクである。 誤認組だと遅くとも3時には採集を切り上げ、帰路につくのだが、Yグループは違う。陽の暮れるまでがんばるのだ。ようやく、陽もとっぷり暮れて、採集を切り上げる。途中の焼肉屋で打ち上げ。(神)氏は下戸だが、彼女は随分行ける口だ。それはいいのだが、Yがぐいぐいとジョッキをあける。事故も心配だが、飲酒運転でひっかかることを気にしないのだろうか。 ここで(神)氏らとわかれ、一路京都へ。深夜兄宅にぶじたどりついたのである。明日は背広に着替えての会議というので、荷物はYが送ってくれることになった。(神)氏に感謝、Yに深謝で、もつべきものは友人である。 それにしても、18、23、26と三連荘で採集にでかけたことなど、かねてなかったことだ。送られた荷物をみてさぞ黄色い罵声が飛ぶことだろう。
<10月11日まで>
石塚峠採集行の翌日、神戸へ。「ニセ札事件」が明るみにでたとのことで、28日早々に帰京。
10月2日は鉱物同志会の採集会で埼玉県大蔵鉱山へ行くことになっていたが、この鉱山から美しいものも結晶もでるとも思えないし、前三回分の採集品の整理が先決ということで、参加断念。
10月4日、「地学研究」が届く。「その後の弥次喜多道中記」がようやく陽の目をみる。
10月7日、午前5時、電話。京都のYから。櫻井先生死去、昨午後3時とのことで驚く。この日の朝刊には既に訃報がでていた。通夜は10日、葬儀・告別式は11日とのこと。
10月10日、この日から三日間、京都の西陣会館で「石ふしぎ発見展」が開催されるというので、駆けつける。即売に出展しているので完売すれば往復の交通費は浮くという算段である。藤本雅太郎氏に会場で逢い、阿蘇外輪の立派な角閃石を頂く。昼食はY、岩野氏と。その他多くの石友と逢う。筆者の出展品、完売には程遠いようだし、逆に買うものもほとんどなかった。買ってまで蒐めるという気分にそもそもなれなくなってきた。一種の老化現象か、単純な窮乏化現象か。
10月11日、朝、櫻井先生の葬儀に参列する高田雅介と一緒に京都駅を発つ。京都の会も会館も前途多難なようで、いまさらながら、益富先生の存在がいかに巨大であったかわかる。
昼にわが家到着。短時間ながら高田にわがコレクションを公開。喪服に着替えて徒歩で築地本願寺に向かう。
多くの弔問者でごったがえしている。有名、無名の石人、貝人がごちゃまんとおり、いろんなひとと挨拶を交わす。福島の橋本氏、秀平氏などもう何年も逢ったことのない石人にも逢った。もっとも九州の足立、岩野両氏は前夜の通夜の方に行ったそうだ。意外なことにわが研究所の元所長の不破先生にも逢った。木村研二郎先生を通してのつきあいだそうだ。京都からは清水さんご夫妻がみえられていた。余人組誤認組のK、M、学生氏は受付。今月16日に予定していた無名会60周年大会は延期し、11月に「櫻井先生を偲ぶ会」を開催するとのこと。
それにしても無名会は解散ということになるのだろうか、また厖大な櫻井コレクションはどうなるのだろうか、三十年前から完成間近といっておられた「日本鉱物誌」第四版は永遠に陽の目をみないのだろうか(未定稿かもしれないが厖大な量の原稿を書き貯めておられたはずだ)。
思いの他、きれいで安らかだった櫻井先生の死顔だったが、これらの疑問にはもはや答えてくださらない。
それにしても高田の創刊した「ペグマタイト」に寄稿しようと準備していた「Xの悲喜劇ー鉱物マニアのための新痴喧ー」は櫻井先生にみていただきたくて書きだしたのに、わが研究所のX線回折装置の故障もあり、ついに間に合わなかったのは残念だ。
葬儀終了後、山田(滋)、児玉、神谷、今井他1名のYグループがわが家にやってくる。家人不在につき、セルフサービスでわがコレクションを肴に櫻井先生追悼のビールをがぶ飲みする。
これで今年は益富、櫻井と象徴的な東西の巨頭というか大御所というか長老を喪ってしまった。筆者にとっての<昭和>の終焉はヒロヒトの死ではじまり、共産圏の崩壊で加速されたのだが、両長老の死でついに完結したのだ。さようなら、櫻井先生。益富先生ご夫妻に元気でやっているとお伝えください。