鉱物編 − 鉱物関連駄稿一覧、解題

鉱物関連駄稿一覧、解題

<'85以前>

[1] 「岩手県崎浜産緑柱石」

72 年、第二次東京生活が始まったのだが、その年の秋、出張を利用して学生時代行ったことのある崎浜を女房と再訪した。東さんのコレクション中にベリルが二点あったので、それを借り受けた。京都に寄った際、益富先生におみせしたところ是非報告するようとのことであったので、生まれて初めて寄稿した。内容はベリルがあったよというだけのもの。その後筆者がえびの高原に転勤となってから掲載されたこのベリルは東さんにお返ししたが、後に東さんのご好意で一点はわがコレクションに収まった。

※「奇妙な「結晶面」をもった水晶―山梨県乙女鉱山産」

乙女鉱山へM氏と採集に行った。M氏はすばらしい日本式双晶を得た。筆者は夢にまでみた双晶は得られなかった。かわりに珍しい面?をもつ水晶を得た。それを高田雅介氏に送り、調べてもらった。結晶面かどうかは定かでないが、結晶面だと仮定すれば大発見である。筆者の原稿に高田氏が加筆修正した。眼目の結晶面の測角、作図は高田氏であり、筆者の駄稿リストに入れるには気が咎めるので番外とした。

<鹿児島時代 '84/5-'87/7>

[2] 「鉱物冗話−わが怪騒の記−」

京都地学会誌で「大食飲石集居士」名義で唯一軽妙酒脱な記事を書いていた石友Yに刺激されて、わが青春の一ページを石に託して書いた駄文。第一話から第五話までと、長い多くの註からなる。とりわけ第四話「我が心石にあらず―私家版されどわれらが日々」はD高校地学部を舞台に、筆者若き日の青春の苦悩と挫折をうたいあげた大力作で大きな反響を呼んだ――ということはなかった。皮肉なことにYは筆禍で姿を消し、バカ話を書くのは以後筆者のみとなった。筆名「越喜来 翔」のデビュ−作。

[3] 「続 鉱物冗話−わが怪騒の記2−」

駄文が活字になるのはやはりうれしい。つい続編を書いてしまった。第九話までと、あいかわず長い註よりなる代物だが、就中第六話「傷ついた青春もしくは石頭の詩」は力作。ただし、あいかわらず反応はなし。編集担当のT氏はこういう原稿を載せていいかどうか自信がないとのたまう。

[4] 「鉱物冗話 補遺−わが怪騒の記3−」

正直いってもう書くネタがなくなってしまったし、好評なのでぜひ続けてくれという声も聞こえてこず(あとで何人かからいわれたが)最終話「サヨナラの総括」で打ち切ることにした。要するに前二作の正誤である。

[5] 「南国弥次喜多道中記1−鹿児島県鉱物産地資料−

この頃、丸野さんという良き相棒を得て、鹿児島県内の鉱物産地を歩きまわっていた。坂下産の魚卵状珪石を地学研究誌の「鉱物玉手箱」に提供したところ、解説記事を書いてくれという益富先生からの依頼があった。そこで、単なる解説記事でなく一種の採集紀行を執筆。ただし、発表は丸野さんと連名にした。坂下、金峰山、八瀬尾、茄子田などをとりあげる。

[6] 「愛鉱家に捧げる趣味的・独断的鹿児島県鉱物略記」

各種文献と県内巡検で得た知見により、鹿児島県下の鉱物と鉱物産地のとりまとめを行った。じつは86秋には手書き原稿は一応完成を見ており、そのコピーを十数名の石人に送付したのであるが、反応は概して乏しかった。その最たる理由は、悪筆のため判読がむつかしいというショックな事実であった。そのためワープロを購入、40の手習いを開始したのである。本稿は県内鉱物の産地、産状、形状などを鉱物別に記載したもので、約260種を掲げた。60ページを越す長いもので20名弱の石友・石師に配付した。筆者が書き散らしてきた多くの駄文のなかで、いささかなりとも学問的意義がある数少ないものの代表であろう。

[7] 「鹿児島県鉱物略記 補遺1」

6執筆以降の新知見を綴ったもの。

[8] 「鹿児島県鉱物略記 補遺2」

7執筆以降の新知見を綴ったもの。もう東京転勤は間近であった。

<'87/7 ― 東京転勤以降>

[9] 「鹿児島県鉱物略記 補遺3」

東京転勤後も鹿児島の鉱物にはこだわりつづけたが、その第一弾。

[10] 「南国弥次喜多道中記2−鹿児島県鉱物産地資料・大隅紀行の巻−」

丸野さんと連名で発表。大隅半島の鉱物産地紀行。高隈山各地、大隅海岸、瀬戸口などをとりあげたが、就中白眉は辺塚であろう。

[11] 「南国弥次喜多道中記3−鹿児島県鉱物産地資料・完結編−」

10の続編。野間池、小野、丸木崎の他、日ノ本鉱山を再説する。丸野さんと連名。

[12] 「南国弥次喜多道中記・補遺−鹿児島県鉱物産地資料(4)」

鹿児島時代、採集行は大半が丸野さんとつるんで行ったのであるが、それ以外の採集行について筆者単独名で記載したもの。菱刈鉱山、竹山、屋久島、甑島、奄美大島、硫黄島についてとりあげた。

[13] 「鉱物冗話 補遺の補遺」

(4)で正誤も付したのであるが、読者から問い合わせがあり、重大なミスが見つかった。やむなく、また駄文を書く羽目になった。

[14] 「鹿児島県鉱物略記 別巻」

鹿児島の鉱物の産地別とりまとめ。産地別に概況と産出鉱物を細大もらさず記載しようとしたもので、結構大変な作業だった。約60ペ−ジ。

[15] 「鹿児島県鉱物略記 外伝」

兎小屋に住む鉱物コレクターの悲哀を説き、逸品主義への転向を語り、逸品リストの作成へと話は飛び、ついに鹿児島県鉱物ベスト40の選定に至るという駄文。

[16] 「鹿児島県鉱物略記 資料」

こちらは鹿児島県の銘柄品を既存文献でレビューするというもの。十以上の文献にでているものを表にして鹿児島著名鉱物一覧としたものであるが、非常に面倒くさい作業だった。

[17] 「本邦産鉱物迷品リスト作成に向けての一試案」

15をほぼそのまま越喜来名義で投稿。京都地学会40周年記念ということで、40をキーワードに強引にゴロ合わせし、鹿児島鉱物40選としたのである。これで鹿児島シリーズは一旦打切り。

[18] 「鉱物冗報1 ザ・崎浜」

鹿児島県鉱物略記シリ−ズ、弥次喜多シリーズ、冗話シリーズと一連の駄稿がすべて終了した。そこで新シリーズとして「鉱物冗報」を考えついた。トップバッターは岩手県崎浜に係わる自己史である。約20部をコピーして石友などに送付した。

[19] 「いとしのピーシー」

「地学研究」の編集者がいたく前稿が気に入ったようで、再三寄稿を勧められた。そこで前稿執筆後の崎浜紀行(これで9回目である)を補筆して寄稿した。なお、ピーシーとは紅電気石のことで崎浜特産品である。本稿はかなり反響を呼んだようで崎浜の来訪者が急増。産地の絶滅に拍車がかかった。

[20] 「瀬戸内海の鉱物」

筆者が室長をしていた瀬戸内海環境保全室の認可法人である瀬戸内海環境保全協会の活性化の一手段として機関誌を発行することになった。この「瀬戸内海科学」(現「瀬戸内海」)、はたしてきちんと原稿が集まり、定期的に(季刊の予定)発行できるかどうかが問題であった。そこで原稿が集まらないときの穴埋め記事として書いた何本かのひとつ。越喜来名義で書いたのだが、発表時は本名になっていた。瀬戸内海沿岸や島に産する主要鉱物とその産地を紹介したもの。

[21] 「鉱物冗報2 ― 鹿児島県鉱物模様88−89」

久々の冗報である。筆者は東京転勤後もなんどか鹿児島に足を運び、鹿児島の石と酒と女を楽しんでいる。本稿はその紀行などであり、日ノ本鉱山、入来鉱山、茄子田、錫山、豊留砕石、漆金山、小木場旧坑などを取り上げている。いずれも丸野さんに付き合ってもらったもので、いわば新・弥次喜多である。

[22] 「九十年代の鉱物界における技術革新への期待」

鉱物同志会の機関誌である「水晶」に殴り込みをかけることにした。他愛もない内容で、晶洞探知機、携帯用小型鏨岩機、タガネ安全使用器など鉱物採集用の新器具を開発しろというものである。ただし、編集者によると非常に読者に受けたそうである。越喜来名義である。

[23] 「鹿児島県産出鉱物一覧」

浦島先生に執筆をお願いされ、浦島先生との出会いとかお世話になったこととかを書いた。ところが編集委員会でボツになり(学術論文集という趣旨にそぐわないという理由)、やむなく本稿を書いた。県下産出鉱物リストと代表的産地を記述した。なお、本稿での産出鉱物数は274種。

[24] 「鉱物冗報3 新版簡易リストに寄せて」

筆者は鉱物コレクションの簡易リストを従来から手書きで作っていたが、或る程度増えてくると見辛くなりその都度全面書き直しを余儀なくされる。そのためワープロに入力することにした。これの写しを十人余の石友に配付したのであるが、ついでに冗報と銘打ち、この簡易リストの由来や功罪、さらに筆者のコレクションの特徴などを記述した。

[25] 「新・鉱物冗話 ― 懲りずに登場」 

冗話を復活させた。タイトルは誤植である。副題はなく、著者名のところに「懲りずに登場 越喜来 翔」とする予定だったのである。日本式双晶について相当のスペースをとった。また、冗話の第四話のヒロインとの再会話なども盛り込んだものである。

※1 [26] 「グリーンツアー顛末記 ― 新緑の甲信路採石行」 

ゴールデンウィークに鉱物同志会で顔見知りになった佐々木、加藤、松山の三氏と採集に行った。佐々木氏がクルマを出してくれたので、非常に楽で安上がりなツアーであった。行ったのは上佐野、夜子沢、妙法鉱山、浜横川鉱山、金鶏鉱山であり、収穫も上々であった。新緑の候であり、かつ狙い目の石が緑系のものが多いのでこういうタイトルとなった。帰ってから本稿を書き、参加者に送ったのであるが、おもしろいので「水晶」に発表しようということになったものである。

[27] 「頭の体操」

'90年のゴールデンウィークに関西の「楽石宙畏」氏から楽しい難解な、そしておよそ下らない鉱物クイズが送られてきた。さっそく挑戦してみたものの五十問中どうしても一問だけ解けなかった。しばらくして解答がきたのだが、かれの解答に明らかなミスがあり、さっそく指摘したところ、かれも脱帽せざるをえなかったことがあった。このときのいきさつを原稿にして「水晶」に寄稿しようとして、かれに了解を求めたのであるが、かれはすでに別の同人誌に筆者の指摘を踏まえて改定したクイズの問題と解答を寄稿し掲載されていたため、ついに幻の原稿となった。

[28] 「石の上にも35年」

当時、仕事上接触のあった「月刊浄化槽」のM嬢から執筆依頼があり、美女の願いはすぐ受けて何本かエッセイめいた駄文を書いたがその一本。この雑誌は原稿料がよかったのだが、職場が替わるともう依頼が来なくなった。

[29] 「その後の弥次喜多道中記ー新・鹿児島県鉱物産地資料」

21にさらにその後の鹿児島採集行の成果を追加したもの。あらたに白男川鉱山とまえにも記述した辺塚,坂下の新知見を加えた。

※1 [30] 「コレクター学序説」 

<苦悩するコレクター><日本一のコレクターになるための方法に関する若干の考察><簡易リストの勧め,若しくは非勧め>という章だてからもわかるようにナンセンス物である。

※2 [31] 「新四人組、三陸路を往く」 

90年ゴールデンウィークに結成された四人組(26参照)は佐々木氏の関西転勤で崩壊した。他にクルマを持ち、操れるものがいないのである。そこでオルグしたのがやはり同志会の強者、渡辺氏。かれを加えて新四人組を結成し、さっそくかれのクルマと運転で三陸をまわった。行ったのは大川目鉱山、野田玉川鉱山、田野畑鉱山、崎浜、玉山金山、大谷鉱山、興北鉱山で天候、収穫、チームワークとも最高。さっそく紀行文を書いた。新基軸は筆者の原稿に対して参加各自が自由にコメントを付け加え、それでもって原稿とするというもので、この世界では初めての試みと思う。

[32] 「蝶々に魅せられて」 

新四人組は三陸から帰って三日後にこんどはW氏の王国である甲武信鉱山にチャレンジ。残雪のなかをこの四人に新顔三人を加えて標高二千米に挑んだ。またまた大収穫。表題の蝶々とは日本式双晶のこと。

※「鹿児島県日ノ本鉱山産砒灰鉄石」

これはちゃんとした学術論文である。筆者が採集し、愛媛大学の皆川氏が同定したこの鉱物は未公表のままだった。筆者の手からサンプルは桜井博士にわたり、そこから小林暉子さんに行って、彼女が改めて分析した。小林さんから、彼女と筆者の共著で発表したいということでその原稿が送られてきた。産状や発見の経緯について筆者が加筆・修正したものである。そんなわけで駄文リストの番号はふらない、いわば番外である。

[33] 「新・鉱物冗話2 ― 東国耳寄り産地事情」

御存知、越喜来翔の登場である。今回は珍しくマジメな産地情報。渦ノ沢の燐灰石と魔愚石(?!)、八茎鉱山のヘイロブスキー石とコサラ石、奥多摩鉱山のガノフィル石、稲田のくさび石を紹介している。

[34] 「その後の弥次喜多道中記 2」

また鹿児島に飛んだ。大谷鉱山、野間ワラフトを再訪し横岳林道を歩いた紀行。

[35] 「鉱物冗報4 '91三陸紀行PARTU」 

盛岡出張の帰路、大川目、崎浜に足を伸ばした。そのときの紀行文。崎浜の西海岸大ペグマタイトからリシア電気石を採集するのはもう困難。

[36] 「蝶々乱舞す ― 甲武信・川端下紀行2」

例の四人組に清田氏を加えた五人で、再度蝶々(日本式双晶)に挑んだ記録。前回は残雪で今回は新雪。画期的な成果を挙げた。

[37] 「四人組の北陸紀行」 

表題のとおりの採集紀行。行ったところは間瀬、青海橋立、亀谷鉱山、神岡鉱山。雨との戦い、ツツモタセ事件など話題豊富。

[38] 「水晶雑考」

仕事上つきあいのあった月刊コアのT記者からは、外交辞令かもしれないがエッセイを書いてくれといわれて書いた3本のひとつ。へそくり稼ぎである。当時水質保全の仕事をしていたので、水の話とすこしでも結び付けたい。となると鉱物マニアの筆者としては当然水晶の出番である。なにしろ、名前に水が入っているのだから。どうせ専門家が読むわけはないというので、水晶やオパ−ルの成因から生命の起源、珪素生物の話まで、かなりいい加減なことを書いてしまった。反省!

[39] 「地獄から天国へ ― 新・新四人組御斉所紀行」

つくばへ転勤になって二ケ月、ようやく超長距離通勤に慣れた3月に御斉所鉱山へ行った際の紀行。例の四人組であるが加藤氏が重態ということで欠になり、清田君が入った。怪我に泣き散々な目にあったが、帰ってじっくり採集品を観察して日本一?の巨大なパイロファン石の付いているのを発見し狂喜した。

※1 [40] 「伊豆採集記(長野鉱山、菖蒲沢)」 

四月に入ってすぐ四人組正規メンバーで花盛りの伊豆へ行った際の紀行。前の晩、飲みすぎて終電を乗り過ごし、やむなく土浦からタクシーで帰った。2万円かかったから、せめてそれに見合う採集でなければとの思いが通じ、菖蒲沢で湯河原沸石を見付けたぞ。エヘン。

※2 [41] 「新・新四人組、鉱物のメッカ小県地方をまわる」

四人組フル始動で、旬日を経ずして今度は長野県へ夜行日帰りを敢行したときの記録。松山氏は仕事の都合で出発直前になって断念、清田君が入っての四人である。越戸、沢山湖、前山、武石山、下本入と有名五産地を駆け足でまわる。戦果は4勝1敗というか4分1敗とみるか。

※2 [42] 「誤認組の東北見聞録」

GWははるばる東北をまわった。死人組はついに清田君が正式加盟し誤認組となった。大石沢、湯の沢、揚の沢、明又、阿仁、亀山盛、荒川、院内、秋の宮、小黒ケ崎(池月)とまわったが、どこでもそこそこのものが採れ、完全空振りはなかったのはなによりだった。

※1 [43] 「ひすいの替わりに沸石を」 

じつはGW東北行きの前哨戦に同志会の採集会の下見として新潟へひすいを採りに行く予定だったが、集合時間に間に合わなくなり(その事情についてはあえて触れない。飲みすぎて列車のなかで寝過ごしたなど恥ずかしくていえない)、参加できなくなってしまった。その夜、同志会の山田氏から誘いがあって、翌日同じ新潟だが小杉の沸石を採りに行った。別宮氏の運転で山田氏と小菅氏が参加した。立派な沸石を得ることができたのだが、その折りの紀行文も遅れて作成した。山田、小菅氏の鉱物に賭ける情熱には脱帽。

[44] 「駄稿解題」

本稿の元ネタ。

※1 [45] 「西沢紀行」 

5月末に筆者苦手の金・銀探しに西沢に行った。誤認組の井上眞治君を加えた六人体制である。いつもだと採集のあと大量に採ってきた採集品の保管場所に困るわ、女房に嫌味をいわれるわといった騒ぎになるのだが、今回はまったくそういうことはなかった。

[46] 「読むラベル」

GWの東北採集行の採集品のうち登録標本のラベル。従来のラベルと異なり、標本のみどころ、特徴、採集の苦労話その他をびっしりと所定サイズ内に書き込んだもの。筆者の「ベスト標本集成」はこのスタイルで統一しようかと思っており、その試作品。これだけを綴じるとひとつの読み物にもなるのが新基軸。

※1 [47] コレクター学序説2 

兎小屋のコレクターは大量に採集してきても大多数は処分しないと収納できないはず。処分の方法としては廃棄、寄贈、販売等が考えられるが、それぞれについての問題点等について<捨石考><標本処分考>と題して大真面目に考察した問題作。越喜来名義。

※2 [48] 平成4年夏、誤認組採臭奇行 ― 茨城県日永…の巻

ご存じ誤認組。大沢口で砂金を探す金に縁がない筆者は不作。しかし、日永ではゲップがでるほどベルチエの良品を採った。だが、チャドクガの被害に逢い、おまけに木葉下(アボケ] では底無しの湿地に足を突っ込む。

[49] 鉱物冗報7「東京ミネラルショー見て歩る記」

8月1日開催された標記ショーの見学記。財政難からほとんどなにも買えなかったのであるが、そのうっぷんをこういう形で晴らした。

※2 [50] 鉱物冗報6「増富鉱山探訪(短報)記」

7月に開催された無名会採集会の参加記録。硫砒銅鉱はいいものがあったが黒平に寄れなかったのが残念。冗報の番号はママ。

[51] 新・鉱物冗話3「甲武信川端下蝶々伝説」

甲武信・川端下へ4回行ったが、その総括を行ったもの。前2回の分は書き下ろしだが、後の2回は32, 36 がベ−スとなっている。蝶々はいうまでもなく水晶日本式双晶のこと。小出五郎の戦前の紀行に対抗すべく随所にうたなどを詠んだ。越喜来名義。

[52] 鉱物冗報8「平成4年夏の弥次喜多道中記」

8月末、全へそくりをはたいて鹿児島に飛んだ。丸野氏と佐多鉱山、辺塚、入来鉱山、平岳等を回ってきた記録。

[53] 余人組・誤認組通信12 「平成の鬼みかげ紀行 ― 黒平,大菩薩峠」

学生氏を除く4人に栃木からきた(興)氏の変則誤認組で岐阜に向けて出発。ところが渋滞のため途中で方向転換。大菩薩と黒平に行った。宿探しに苦労した。黒平ではだれひとり本格的ガマはみつけられず。

※1 [54] 鉱物冗報9「ガーネット紀行・速報版」 

山田隆氏から誘いがあり急遽2時間後に出発して和田峠に行った。自然破壊のすさまじさに驚く。2センチ完晶の夢は潰え去った。その後、栗生に行った。予想外に緑〜黄系の良晶があった。

[55] 「続・駄稿解題(石人用)」

本稿の元ネタ、パート2。(石人用)としたのは別途一般友人向きに鉱物関連以外のものも含めた「解題」も作成しているからである。



とりあえず解題はここまでで、以下はリストのみ

<'93/3 益富壽之助先生逝去>

<'93/10 櫻井欽一先生逝去>

<'94/8 ハワイ転勤、四,五人組解消>

<'95/4 帰国、環境研修センターへ転勤>

<'96/4 環境庁退官、関西学院大学に。三田へ転居>