鉱物編 − その他雑文一覧、解題

わが<役人>私史

役人生活を終えて大学人になりました。 ゆくりなくも28年前、はじめてレンジャーとして赴任した日々のことを思い出しています。あの頃、不安でしかたがありませんでした。ぼくは一応林学の出身者ということになっていますが、じつは樹木や植物のことなどなにも知りませんでした(いまも知りません)。それでレンジャーが務まるのだろうかと不安でしかたがなかったのです。 いまも同じです。

環境行政29年とはいっても、じつはふりかかる火の粉を払ってきただけで体系的な知見の蓄積もなければ、もっと悪いことに確固とした環境にかかる価値観ももっていません。もっと卑俗にいえば英語もパソコンもまるっきりダメですし、学会にも縁がなく、論文といえばハワイででっちあげた未完のもの一編しかありません。こんなので大学人としてやっていけるのかと思うと、いてもたってもいられない気持ちになります。 28年前、案ずるより生むが易しで、なんとかレンジャーをやってこれました。ですからこんどもなんとかなるだろうという安易な気持ちも一方にあります。 しかし、レンジャーとして務まったのは経験を積んで動植物などに精通したのでなく、レンジャーとしての自分をナチュラリストとしてでなく行政官として徹底させたことでした。こうしておそらくもっとも動植物の名前に疎いレンジャーが誕生したのでした。そのご、別に望んだわけでないのですが、レンジャーから外れた後半生を過ごしたので、それ以上ボロを出すことはなかったのですが、やはりレンジャーたるもの最低限の動植物や生態学の知識はあるに越したことはありません。 そんなわけでどんな大学教員になるのか自分でもいまだイメージがつかめないのですが、なんとかやっていくしかないと腹をくくっていますので、こんごともよろしくご支援ください。

さて、あいさつ代わりに役人生活29年間をざっと振り返ってみたいと思っています。

1、役人見習い時代

昭和42年4月、ふとん一つで上京しました。 レンジャーとして現地に出るまえに一年間厚生省国立公園局での見習い修業があったのです。

新宿御苑のなかの老朽化の極限まで達した木造の公園局専用寮に入り(消防署から度重なる取り壊し勧告を受け、翌年とりこわされたのですから、どれほどひどい建物か想像がつくでしょう。大体寮には風呂も電話もないのです)、霞ヶ関まで通いました。 当時はほんとうに役所も貧しいところで、ソロバンと青焼きコピーが幅を利かせていました。部屋に直通電話はあることはあるのですが、それはよほどのことがないと使えません。最初に先輩から伝授されたのは内線電話を使って市外電話をかけるという非合法のしかし上司から修得することを命じられた秘儀でした。 夜は毎晩のように同期の連中や先輩、それに若い事務屋さんなどと安酒場を飲み歩くかマージャンするかで、2万円ちょっとの月給でしたから給料日前にはすっからかんでした。 役所に入ってしばらくして係長から決済(民間で言う稟議)で局長のハンコをもらってくるようにいわれました。決済欄に局長公印をバーンと押して帰ってきたら物笑いのタネになりました。ほんとうに無知だったんですね。 技官差別の著しい官僚世界のこともまったく無知でした。一応上級職としての造園職の一期生になるのですが、上級職の名簿にも載せてくれないという扱いで、そういう名簿があること自体長い間知りませんでした。技術屋、とくにレンジャーあがりは絶対局長になれないと知ったのも就職してのちでした。

この頃、国立公園局というのはまったく無力な役所で、いまでいう行革で運輸省観光局との統合(「観光行政の一元化」!)を云々されたり、一省一局削減の槍玉に挙げられたりしていましたし、実際翌年「部」に格下げになりました。 同期の連中は結構ガールフレンドがいるようでしたが、そちらの方も無縁な一年間でした。

2、海辺のレンジャー

翌4月、晴れてレンジャーとして瀬戸内海国立公園は岡山県鷲羽山に赴任しました。 岬の高台にある一戸建の宿舎兼事務所(ちょうど瀬戸大橋の起点のあたりで、いまは跡形もありません)であこがれの単独駐在レンジャーになれたのです。同期5人中単独駐在レンジャーは二人だけで、あとは管理事務所勤務と県庁出向ですから運が良かったのです。 仕事は大半が許認可業務で、恐怖の「自然解説」はほとんどせずにすみました(もちろんひとりっきりですからやりたければいくらでもできたのですが)。関係市役所や県庁とのつきあいが深く、それなりに厚生省の代表として遇してくれるので鷲羽山のプリンスなどと悦に入っていました。しかし考えてみると大学でたての若造が市や県の幹部と平気でタメ口を聞けるというのも異常な世界で、まあ、それが異常だという感覚を自分自身もっていたことがみなにかわいがってもらえた原因のひとつかもしれません。 当時瀬戸大橋の建設準備中で、瀬戸大橋の完成モデル図の案内板を鷲羽山展望台に建てたいという申請が上がってきました。そんなものはどうでもいい話で、肝心なのは瀬戸大橋の本体自体の位置やデザインなのですが、そちらの方は公園部の頭越しに決まっておりノータッチ、当時水島コンビナートからの工場排水が海を汚していたことにノータッチだったことと合わせてその頃の国立公園部がいかに無力な存在だったかがよくわかります。 海水浴場の露天商の取り締まりもここのレンジャーの仕事の一つで、往時のレンジャーは結構ヤーサンがらみでこわい思いをしたこともあったらしいが、さいわいぼくのときはなにもありませんでした。

ところで昭和45年春、突如として瀬戸内海国立公園管理事務所が誕生、所長と科長がやってきてぼくが唯一の平職員になるという事態になりました。 現在ではレンジャーはすべて管理事務所の一員なのですが、その頃は事務所の数も少なく、直接本省の指揮下にあるいわゆる単駐のレンジャーが多かったのです。 所長兼小使いから専任の小使いになったわけで、プリンスの虚像が一気に崩れさったわけです。管理事務所は市役所の一室を借りて、そこに鷲羽山から通うというわけで、寝坊のぼくには辛い日々のはじまりでもありました。 当時は管理事務所体制になったからといって単駐レンジャー時代よりも権限が増えるわけでもなんでもないので(いまは違います。所長にはかなりの権限が下ろされています)、随分がっかりし早く異動のあるのを心待ちにしていました。しかし、よく考えてみるとこの体制が自然なので、二十代前半の若造が所長のような顔をして大きな口を叩くのはおかしいのでしょう(もっとも他省の上級職連中は二十代で税務署長だとか警察署長だとかになっているわけで、それよりはましかも知れません)。 食事は近くの土産物屋のオバチャンがつくってくれました。代々のレンジャーがみなお世話になったオバチャンですが、いまは消息不明です。元気でいてくれるといいのですが…

3、山のレンジャー

さて、昭和45年5月15日付けという中途半端な日付で転勤になりました。みじめな平所員生活は一月半で終わりました。 こんどはあこがれの北アルプス、中部山岳国立公園平湯温泉駐在です。 平湯は標高1200メートルにある人口200人の温泉集落です。ここに陣取って中部山岳国立公園の岐阜県側全部を管轄するのです。平湯温泉のほか乗鞍岳、新穂高温泉、それに槍、穂高などの山岳が主たる管轄対象です。 瀬戸内海は国立公園としては公園区域が岬や島、展望の利く山頂などに点々と散在し、しかも海域が事実上公園でないなどかなり異質なのですが、こんどはもっとも正統な、つまり公園区域がかたまりとしてあり、その中心が公園としての核心部であるという典型的なパターンの国立公園なのです。

こんども主たる仕事は許認可には違いないのですが、瀬戸内海のように一般住宅など公園利用に直接関係ないものは少なく、旅館や観光施設が主たる対象です。それに役場や県庁との関係はもちろんあるのですが、地元の旅館などとのつきあいが圧倒的に多くなります。そうした意味でもレンジャーの醍醐味を満喫できたといっていいでしょう。 ただし、地元とのつきあいには気を使いました。平湯では二十数軒旅館があるのですが、そのほとんどが親戚同士です。外に対しては団結して排他的になりますが、なかでは結構いろいろあり陰口も多々聞きます。したがってもちろんマージャン仲間だとかふだんのつきあいはいろいろあるのですが、たとえば祭りの夜などは全旅館をまわるなどレンジャーとしては等距離外交を心がけねばなりません。ですから、ここでは二年半自炊生活をしました。

さて、ここの重要な仕事はもうひとつあります。それは山や公共の場などの美化清掃です。レンジャーが中心になって役場や旅館、観光業者などをメンバーとする任意団体を作り、その会費で学生バイトを雇って清掃させたり、会員同士で一斉清掃したりするわけで、さまざまな規制をかけるだけでなく、目にみえる形でレンジャーが地域に貢献している姿をみせる一つの手段としていままでのレンジャーが築き上げてきたものです。それにこれである程度のカネとヒトが事実上レンジャーの思い通りにもなるわけで(私腹をこやすわけでないので要注意)、これには一生懸命取り組みました。 バイト学生の募集には最初とまどいましたが、そのうち希望者が殺到。二年目には賃金を値下げしたり、途中からのバイト希望者には交通費・食事のみで賃金なしという条件で採用したり、かなり好き放題にやりました。もっとも払った犠牲もかなりのもので、夏休み期間中は十数人が事務所兼住宅を占拠、それ以外にもバイト連中がしょっちゅ登山基地・スキーの無料宿泊所として来ていました。 当時は学生運動華やかなりし頃で、左翼くずれも多く、赤ヘルに「自然保護」と書いてパトロール、美化清掃のアジテーションをやらせたり、平湯で酒に酔ってデモしたりといまにして思えば顰蹙を買うようなことをしましたが(この頃のバイト学生の何人かとはいまもつきあいが続いています)、これも時代の熱病だったんでしょう。 この頃巷では70年安保闘争だけでなく、公害反対・自然保護の世論も盛り上がり、昭和46年夏には環境庁が誕生、ぼくが所蔵していた厚生省国立公園部は組織ごと移籍し環境庁自然保護局になりました。平湯に来た頃には新穂高ロープウエイが完成、乗鞍スカイラインもほぼ完成というときでしたが、着工が数年遅れていれば大問題になっていたことでしょう。

ところで冬の平湯はたいへんです。高山へのバス便もなくなります。12月から3月までは2メートルの雪に埋もれますし、気温は零下20度にもなります。新聞をとりにいくのに毎朝200メートルのラッセルです。なけなしの貯金で中古車を買ったのですが、雪道につっこむのはしょっちゅうです。夜はよく旅館の二代目連中とマージャンしたのですが、負けて夜道をとぼとぼとラッセルして帰るのはほんとうにさびしいものです。 平湯三年目の春に結婚したのですが、それは何度かの失恋後のあとにやってくる冬のさびしさに耐えられなかったせいかもしれません。 昭和47年の夏、東京転勤を命じられました。都会がいやだからと志望したレンジャーなのに東京暮らしとはあんまりだと抗議し、地元でも留任運動に動いてくれたようですが、結局押し切られ東京へ出ていきました。

4、権力中枢部のエアポケット

行った先は環境庁でなく、総理府本府です。内閣総理大臣官房兼内閣官房審議室というおどろおどろしい名前のところです。ここの観光担当主査ということです。仕事は観光白書の編集、観光政策審議会の庶務その他観光関連行政の各省間や与党との連絡調整ということになっていました。 与えられた宿舎は新宿に程近い新大久保のアパート式官舎です。近くて便利でいいのですが、おそろしく狭い宿舎で、とくにぼくの場合は結婚を契機に鉱物趣味を再開しましたから、石と本の置き場がなくて苦労しました。それにいままでの森の中の一軒家とまるで環境がちがうので、慣れるまで苦労しました。

さて、職場に行って最初に参ったのは仕事のないことです。適当に新聞でも読んでおいてくれというのです。大きな部屋の中に多数職員がいるのですが、みんなシーンとして確かに新聞を読んでいます。朝から夕方まで終日新聞や本を読んでくらすなど通常の神経ではできっこありません。 一、二週間してやっと事情が飲み込めました。ここは各省からの寄り合い世帯で7月1日にほとんど全員代わってしまい(ぼくは山の中からの転勤ですから1週間遅れて着任しました)みな新参者ばかりでお互いに遠慮しあっているうえ、とくに差し迫った仕事もないものですからだったのです。 一月も経たないうちにみな打ち解けて朝から夕方までワイワイ雑談ばかりして過ごし、昼休みはソファでトランプ。勤務終了後はマージャンという生活パターンになりました。 通常の役所では課が一つの単位となって部屋も課毎に区切られています。ここの場合も局長相当の審議室長のもとに一応課長にあたる十名ほどの参事官がいます。、ぼくの場合は「観光・運輸」担当参事官と同参事官補1名と他の主査2名で一つの課のような体制になっているのですが(ただし「運輸」というのは鉄道や飛行機事故が起きたとき対策本部の役割を果たすというだけで、常時の業務は皆無ですから全員が「観光」担当といっていいでしょう)、ユニークなのは参事官ばかりを一つの部屋に集め、それ以外はすべて大きな部屋に入っていることです。したがって労働担当、婦人問題担当、同和問題担当…といったまったくバラバラの担当を持った連中と毎日顔を合わし、担当参事官の顔は滅多にみないというじつに気楽な配置になっていることで、おかげで各省のキャリアの発想のようなものが理解できるようになりました。

もちろんたまには忙しいこともあるわけで、審議会や各省連絡会の前日・当日、それに白書の編集シーズンなどですが、そういうときは担当と関わりなく単純手作業はお互いに手伝いあうといううるわしい体制でした。 白書は各省に分担を決めて書いてもらうわけですが、これは市販していますから執筆料代わりの相当の編集料がでます。各省の実際に執筆してもらった人たちには打ち上げパーテイの開催とビール券位でお茶を濁し、あとはわが観光班の財源となり歓送迎会や忘年会などは全部それで賄いました。 こういう風に非常に気楽に過ごした毎日ですが、それでもまたレンジャーの戻る日を心待ちにしていました。二年がまもなくというとき運輸省から来た参事官にもう一年残留する気はないかと問われ、即座に断りました。かれはそれではどこに行きたいかというので断然単独駐在のレンジャーと答えたところ、それならばと環境庁とかけあってくれて、7月、無事に宮崎県のえびの高原駐在ということになりました。そして生後十月の赤子を抱いて赴任したのでした。

5、高原のレンジャー

えびの高原には2年半ほど駐在しました。これもたいへん楽しいものでしたが、このときのことは「国立公園」誌に書いたことがあるので省略しますが、クルマ(公用車)があったこと、同好に恵まれたことのせいで、鉱物趣味が満開したことだけ補足しておきます。

6、霞ヶ関環境官僚1年生

1977.1 - 1979.8 (昭和52ー54年) 東京(環境庁自然保護局保護管理課)

そのあと本庁に呼び戻されました。自然保護局の保護管理課(現国立公園課)の事業係長ということです。 役人である以上、本庁の仕事も知っておいてもらわねばならぬ、ということで二年だけは辛抱しろとの厳命でした。 事実、レンジャーだけしていると役人の基礎知識、たとえば国会・与党対応、審議会対応、各省協議、法律・予算等々は身につきません。ですから入ったばかりの法律事務官にそんなことも知らないのですかなどとバカにされ、それが悔しくて随分勉強したわけで(係長というのは課長補佐とちがって逃げられないポストです)、後々のことを考えればよかったのかも知れません。

さて、事業係というのは公園事業の認可承認を担当しています。公園内の一般用道路や旅館などは「公園事業」という扱いになり、それをを作ったり変更したりするときは環境庁の認可や承認が必要となるわけです。 昭和53年十月には同じ課の保護係長に配置換えになりました。こちらの方は、公園内の公園事業以外の一般工作物などの許可を担当しており、結局3年ほどこうした各種許認可の元締めをやらされたことになります。 この時期ルーテインの許認可でも結構苦労したことはありますが、それ以外では国立公園管理事務所長の専決・ブロック体制を引いたことだけはいまも鮮明で、役人生活29年間での最大の、というか唯一の功績かも知れません。発想と動機は非常に単純で、単純簡単な許認可案件までかたっぱしから申請書が上がってきますので、片っ端から処理していっても間に合わず、国立公園内の電柱一本の申請でも処理するまで何カ月か順番待ちのような状態に担当係長としてイヤケがさしたことです。

そこで所長にそうした案件の処理権限を下ろそうと思ったわけです。ただ国立公園は全国で28あるのに、管理事務所は10しかありません。管理事務所のある公園とない公園とで扱いを変えるわけにはいきません。そこでブロック制という発想になったわけです。つまり「阿寒国立公園管理事務所」というのは阿寒国立公園の管理事務所でなく、阿寒に位置する(北海道全体の)国立公園管理事務所という位置づけにしようというものです。 当初は上司もそんなことできるものかと否定的懐疑的でしたが、法律事務官を仲間に引き込み、何カ月も徹夜に近い状態で作業をつづけ、やっと実現にこぎつけることができたのです。 この体制は単独駐在のレンジャーもブロックの所長の部下としてしまうものですから、対外的にはレンジャーの地位低下を意味します。ぼくが単独駐在のレンジャーだったら真っ先に猛反対したかも知れぬ代物で、そういう意味では複雑な心境でしたが、所長の格はいやでも上がるわけで、将来の処遇という面では必要なことだったのでしょう。 現在では事務所の名称自体も代わり(たとえば阿蘇国立公園管理事務所はいまでは九州地区自然保護野生生物事務所に変わりました)、そういう意味では先見の明があったのでしょうか。

さて、この仕事をやりおえて、ぼちぼちレンジャーに戻ることを心待ちにしていたのですが、ときのN課長がせっかく本庁の仕事を覚えた奴を現地に戻すのはもったいないと思ったのでしょう。本庁係長経験者は単独駐在レンジャーに戻せないが、かといって事務所の保護科長にはまだ早い、もう二年辛抱すれば必ず保護科長にするからと口説かれ、自然保護局の計画課に異動することになりました。 ちょうどこの頃環境庁カラ出張事件が世間を騒がせました。このことでは苦い思い出があります。専決・ブロック制では局や官房総務課の法律事務官に世話になったので、打ち上げということでいっぱいおごってやろうとしたのですが、それを聞きつけたN課長がこういうときのためにウラガネがあるんだ、庶務に話しておいたからもっといいところでやれといってくれたのです。ぼくとW君のふたりでいわれたとおり接待したのですが、その1週間後に他局でのウラガネ事件が発覚、新聞をにぎわせました。庶務の係長がこういうことになった以上申し訳ないがあのカネは払えないと言うので、ぼくとW君の二人でなけなしの小遣いをはたきました。 閑話休題。この時期のプライベートなことにも触れておきます。 昭和51年暮、東京転勤直前に京都の母が入院しました。胃潰瘍と本人は信じてましたが、じつは末期ガン。そして翌年初秋他界しました。その二月後に、次男が誕生しました。

ところでこの時期、住んだのは武蔵村山市の公務員住宅です。遠くて狭い二重苦に悩まされました。帰りは午前様の毎日で、ときおりは飲んだりすると車中寝過ごしてしまい、自腹でタクシー帰館ということもしばしばでした。

7、最後の自然保護局

計画課では自然環境保全地域の指定管理と土地利用基本計画と自然公園・自然環境保全地域のすりあわせがルーテインでしたが、その他特命ということでいろいろやらされました。 自然環境保全地域の指定は対象がほとんど国有林で、林野庁のガードが固いので苦労しましたが、白神山地のようにふつうではなかなか行けない出張を楽しめました。出張といえばもうひとつ自衛隊機で中硫黄島へ行ったのも懐かしい思い出です。

特命では二つのプロジェクトのとりまとめをやらされました。ひとつは局内メンバーで研究会を作り、都市に蝶やホタルを呼び戻すための提言をまとめるとともに環境庁の所管する新宿御苑をケーススタデイにして具体的な生態的改造計画いまでいうビオトープ構想をまとめました。もうひとつは国土庁の調整費で「モデル定住圏における自然公園の活用に関する調査」を三つの地域でケーススタデイするもので、そのうちの二地域を担当。締め切り間際には何日も徹夜して報告書を書きました。大学に来るに際しての業績調書には五つの編著が麗々しく掲げてあるのですが、そのうちの二つがこれですからなにが幸いするかわからないものです。 これでようやく本庁勤めも終わりだと思っていました。ある日N課長に「よくやってくれた。これで君も転勤だ、あ、引っ越しは必要ないから」との一言でした。勉強のためよその局へ行って来いというのです。 プライベートなことでは、母に遅れること2年、昭和55年夏に父を喪いました。同年の暮には渋谷に近い目黒区の東山の公務員住宅に移れました。狭いのはしかたがないとして、うんと近くなり助かりました。

8、未知との遭遇

環境庁の技官というと、われわれ造園職、いわゆるレンジャーの他に衛生工学と物理・化学などのプロパーといわれているものの大きく3種類にわかれます。自然保護局はレンジャーの王国で、代々モンロー主義をとっており、よその技官は自然保護局には断固として配属させません。よその局には人が足りないからと強い要請があればときおり配属することもありますが、これはいわば例外です。なんとその例外になれというのです。もちろん数年すれば自然保護局に戻ってくるのが前提ですが。その時点ではまさか例外中の例外として行きっぱなしになるなどとはだれ一人考えていなかったでしょうが。 行った先は大気保全局大気規制課で大気調査官というポストでした。未規制物質係長とペアで固定発生源(工場等)からの未規制物質対策をやるということだったのですが、引継を聞いて驚きました。ノンメタンハイドロカーボン(NMHC)だとかベンツピレンだとかまるでチンプンカンプン。いわば宇宙人の寝言です。あわてて本屋へ行き大学受験の化学・物理を買ってきて読んだのですが皆目理解できず、もう一度本屋へとって帰し高校受験の化学・物理を買ってきてこんどは理解できたのですが、NMHCとはまるで結びつきません。 それでもベテランの係長が下に付いて取り仕切ってくれるだろうと楽観していたのですが、話を聞いてビックリ。係長も同時に代わるというのです。もっと驚いたのは労働省から来たN係長の方で、こんなド素人の上司とペアでこんな仕事ができるわけがないと暗澹とした気分だったそうです。

さて、とはいってもよそに対しては知ったかぶりするのが役人のミエというものです。専門家の先生にぶつかっていき、ゴマをすったり酒を飲んだりで胸襟を開いてもらうことができましたし、手取り足取りで教えてもらい、なんとか門前の小僧になってきました。 それに自然局とはちがい他のラインとは相互不干渉で、年次がどうのとかの長幼の序もありませんから、慣れるとかえって気楽です。 また、自然局とは段違いに旅費が潤沢で、庶務からはどんどん出張に行ってくれと催促されるほどで、そういう意味では優雅でした。 レンジャー出身という半プロパーみたいな立場でしたから、純プロパーから気持ちの上では疎外されていると思いがちな他省出向者や事務官と意識的に麻雀や酒などもつきあったので、そういう意味でもバラバラになりがちな課内の接着剤の役割をある程度ははたせたのではないかと自惚れています。

さて、わがラインで取り組んだのは以前からの懸案でなんとかけりをつけなければいけないNMHCの排出規制と新規予算が付いたアスベストの調査・対策を軌道に乗せること、それに石炭転換に伴う大気汚染という局内プロジェクトの石炭種調査の遂行の三つでした。 NMHCは光化学スモッグの原因物質といわれているもので、何年もの調査検討を行ってきており、ぼくの代である種のケリをつけねばならないということでした。 いろいろ考えたのですが、諸般の情勢から法規制はムリとのことで排出抑制マニュアルを作成し、対外的には派手な排出抑制要請を各方面に行うことでお茶を濁しました(このマニュアルも大学に来るにあたってのぼくの編著という業績にカウントされてます)。批判はあろうかと思いますが精いっぱいやったと思いますし、検討会の座長でどうケリをつけたらいいか悩んでいたY先生には感謝されました。 アスベストは大御所K先生をかつぎだしたのが大成功。現状濃度調査、発生源調査、排出抑制技術のまとめ等アスベストについての総合的なメニューをほぼ完成させることができました。 こちらの方はそのご世間で火を吹き、このメニューをベースに一応法規制まで持ち込めたそうですからもって瞑すべきでしょう。 アスベストは一応鉱物ですから趣味が身を助けた面もありました。バックグラウンド調査という名目で二度まで小笠原に行きしこたま鉱物採集したのも忘れられぬ思い出です。

最後の石炭はオイルショックのあと発電所が石炭火力に転換するという見通しのもとに局あげてのプロジェクトとして予算要求し、4年がかりで調査を行うことにしていたものです。ぼくはその3年目にやってきたのですが、この頃には石炭転換という見通し自体がおかしかったことははっきりしていたのですが、調査は調査です(ほんとうに役所というのはしょうがないところです)。 ぼくのところは石炭種により汚染がどう変わるかとくに重金属に焦点を合わせて調査することにし、ついに実験炉を作るという冒険を始めたところに着任したもので、ひやひやしながらもなんとか調査をまとめることができました。

こうした調査を通して公害関係のいろんな先生と知り合うことができました。自然保護の関係ではほとんど先生族とはつきあいがなかったのとは大違いで、そうした意味ではラッキーでした。 私事に触れておきますと、昭和58年5月義母が他界しました。これできれいさっぱり<親>がいなくなりました。この年の秋ボーナスの盗難にあいました。同僚のカンパしてもらい、糊口をしのぐことができました。

9、南の玄関口へ

さて、昭和59年の5月、大気をお払い箱になり鹿児島県庁に行くことになりました。 最初は環境局環境管理課の環境管理監ということで自然保護を担当し、保護か開発かで一時世間をにぎわした志布志問題の最終局面にもタッチしました。 環境管理課のあと商工労働部観光課長にするというのが最初の密約だったらしいのですが、商工労働部はそんな約束はしらないと拒否したらしく結局パーになり、ぼくを引っ張ったK環境管理課長が苦心の末、公害規制課長(のちには原子力安全対策室長兼務)に据えてくれました。大気にいたことが幸いしたのかも知れませんし、ここで公害全般をやったことがそのごのぼくの進路に影響したかもしれません。

ここでの仕事、生活についてはかつて「わが鹿児島」と題した私家本を作ったことがあるので基本的にはそちらにまかせることにしますが、より市民に密着した自治体というものを肌で味わうことができ、非常な勉強になりましたし、 毎夜のように県の仲間と飲み歩きほんとうに楽しい思いをしました。それに、環境庁にいれば公害・自然保護の全部をカバーすることはとてもできなかったでしょうが、ここで自治体の立場からですが、一応はざっと学べたことが大きかったと思います。

また、私事では鹿児島の鉱物に熱中しました。このことがきっかけでアマチュア鉱物界の駄文家としてデビュー?しました。中古というか大古車を購入、家族サービスにも余念がありませんでした。

10、水の世界

昭和62年夏に環境庁に戻ることになったのですが、ぼくの後任にひきつづき環境庁から、それもレンジャーから取ってくれることになりました。別にぼくが画策したわけでもないのですが、そのことが結果的に環境庁内のぼくの評価を高めたようで、ケガの功名でしょうか。

さて、戻った先は自然保護局でなく水質保全局でした。 調査官という無任所準課長のようなポストで、地盤沈下対策、庁内酸性雨対策連絡調整、局内の国際関係窓口、同じく局内各課にまたがる有害化学物質対策のとりまとめ等でしたが、はっきりいって閑職でした。

なお、住んだのは江東区越中島の公務員住宅です。すこぶる便のいい場所で、結局9年近くここに住みました。

11、瀬戸内海、再び

その翌夏には瀬戸内海環境保全室長となりここに2年いました。役人デビューが瀬戸内海国立公園のレンジャーですから、瀬戸内海再び!ということです。 ここは瀬戸内海環境保全特別措置法を所管していたのですが、仕事という意味では閑職でした(室内の人間関係では苦労しましたがーはっきりいって意欲能力協調性すべてを欠いて、プライドだけありあまる部下が一人でもいるというのは大変なことですー)。

ただ、応援団というか圧力団体というか瀬戸内海知事市長会議ー瀬戸内海環境保全協会というのがあり、そことの深いつきあいがありました。兵庫県がそこのオーナーなのですが、他県とは必ずしもしっくりいっておらず、その仲をとりもつのに苦労しました。そんなことで、神戸には毎月のように来ました。その人脈がいま意味を持っているわけで、そういう意味でも巡り合わせというしかないのでしょう。 協会のI専務にはほんとうにお世話になったのですが、そのご急死されたのが残念でした。 兵庫県知事がある日世界閉鎖性海域環境保全会議を開きたいという爆弾宣言を行いました。関係者一同ふりまわされ、たいへん苦労しましたが、無事開催にこぎつけられました。 そのからみで、アメリカのチエサピーク湾・サンフランシスコ湾へ宣伝を兼ねた視察団をだすという話がありました。メンバーは自治体と企業の環境担当ですが、I専務に団長として行くよう要請され、英語ができないからと最初は断ったのですが、通訳も付けるといわれ拒みきれずにOKしました。これがなんとはじめての海外旅行でした。45歳のときのことです。旅行自体は楽しかったのですが、入国審査から英語で躓き、情けない思いをしました。

ここでは瀬戸法に基づく埋め立ての審査というちょっと自然局の許認可のような仕事もありました。埋め立ては厳に抑制すべしというのが建て前で、必要性に応じて結局は認めることも多いのですが、神戸沖空港構想というのがあり、地元市は執念を燃やしていました(いまもです)。ある新聞社の問い合わせに許容できないと話したところ関西の新聞一面トップになり、大騒ぎ。何人かの国会議員に呼びつけられ恫喝されるなどということもありました。

12、最後の霞ヶ関

さて、調査官 - 瀬戸内海室長のあと水質規制課長の内示を受け、あっと驚きました。それまで衛生工学系技官が占めていていわばかれらの本丸のようなポストで、もちろんレンジャーとしてははじめての(そしてさいごの)ポストだったからです。もちろん抜擢されてポストを奪ったという訳でなく、地球環境部が新たにできたことに伴うシマごとのポストの再配分の一環だったのですが。 水質規制課は水質汚濁防止法による水質の規制を中心に多岐な業務を抱え、機器整備の補助金も持っている水質保全局の要ともいうべき課で、二十人ほどの課員を抱えた大所帯ですが、幸い課内での人間関係はおおむね良好でした。 困ったのはこのときの飲んだくれのバカ局長への対応でした。この局長にはすっかり嫌われましたが、おかげでわが課と課員への被害は最小限におさえられました。 大仕事だった水質汚濁防止法の改正がなされた直後の配転だったので、のんびりできるかと思ったのですが、その後始末が結構たいへんで、他にも第三次総量規制の導入、トリクレン等使用施設の新規規制、湖沼法へのN規制の導入、自動測定器の公定法化、生活排水重点地域の指定、製紙工場ダイオキシン問題の噴出等々次から次と仕事がありました。でもほとんどの実務は補佐以下がしきり、仕上げの時や外部対応のときに出番があるだけですから、さほど苦労した思いはありませんし、換言すれば課長などだれでも勤まるのです。

唯一苦労したのは、小規模ながら新規のハード事業費(生活排水汚濁水路浄化施設整備)補助制度を創設したことです。これはそもそもはぼくが瀬戸内室長時代に水質規制課の某補佐が予算局議で提案した荒唐無稽な「事業調整費」です。説明は省きますが、到底実現不可能な夢です。某補佐は単なる話題提供のつもりで出した話で、面白い面白いといっているうちに、話がどんどん上に上がっていき、ついに提案を降りるためには、それに代わるなんらかのわずかでも実現の可能性のある提案を出さねばかっこがつかないということになり、ちょうどそのときに水質規制課長になったのです。 そこでこの案を考え出したのですが、じつは新規のハード事業の補助制度の創設となると、大蔵省がまずうんといいません。そこで政治家の力を借りざるをえないということになります。例のバカ局長はこんな案自体に猛反対だったのですから、動いてくれるわけがありません。そこでぼくが通常業務は補佐以下にまかせ、一時期ほとんど連日のように議員会館に通い代議士口説きを始めました。結果的に自民党の大物も応援団に回ってくれ(そのころからバカ局長がしゃしゃりでたのは噴飯ものでしたーなお水質保全局では5人の局長に仕えましたが、そのうち4人まではマトモな人でしたから誤解なきよう)無事制度創設に成功しました。 このての事業費補助は環境庁では自然保護局の専売特許(自然公園等施設整備費)で、環境庁の全体枠があるものですから、結果的には自然保護局に行くべきカネの一部を横取りしたわけで、自然保護局の先輩連中から出入り禁止を申し渡されました(もちろん冗談ですが)。

なお平成3年に入ってから鉱物採集の回数がやたらに増えました。クルマで連れていってくれる石仲間グループができたのです。この紀行文書きが新たな趣味になりました。

13、超長距離通勤の日々

平成2年1月、こんどはつくばの国立環境研究所(国環研)へ主任研究企画官として行けという発令がありました。ここもそれまで衛生工学系技官のポストだったところで、どうもレンジャーでありながらレンジャー以外のところばかり渡り歩く所属不明の人物という評判が定着しました。 国環研は超大物学者を所長、副所長に抱き、研究者の7割以上が学位を有する高名な研究所で、運営も委員会制度中心という研究者自治が貫かれ、本庁からの独立性は他の国立研究所と比べると圧倒的に高いところです。逆にいうと本庁の操り人形でない研究所で、そのため本庁での評判は芳しくないところもあり、ぼくなども霞ヶ関時代はよく悪口を叩いていました。 主任研究企画官というのはもちろん研究するわけでなく、研究企画をするわけでもありません。研究所の予算や組織、運営など管理全般について研究企画官室のトップとして仕切り、研究所と本庁とのパイプ役になるわけです。先にもいったように研究者自治ということで各種委員会システムができているわけですが、主要な委員会のメンバーでかつその事務局役をやり、予算配分や予算要求などの原案作成にあたります。 ある意味では環境庁から国環研に送り込まれたお目付役なわけで、行政の論理と研究者の論理の板挟みになるわけですが、その役は鹿児島県時代に充分経験しましたからどうということはありません。環境庁に対しては国環研の立場に立ち、国環研に対しては環境庁の立場に立つということは、板挟みと思うと苦痛ですが口先ひとつで両方を操っていると思いこんだ方が精神衛生上楽です。

もう一つは研究者同士のもめごとや、研究サイドと管理サイド(総務部)とのトラブルの調停役になることです。 ぼくのとき幸いしたのは所長、副所長それに管理畑のトップである総務部長がみな立派な方々で、ぼくをサポートしてもらえたことで、そのためおおむねボロを出さずうまくやれたのでないかと思いますし、もう一つ予算面では平成元年にどんぞこに落ち込んだのですが、そのご地球環境ブームに乗ってどんどん予算を伸ばし、バブル崩壊後不況対策ということで使いきれないほどの補正予算が付き、研究者の不満も小さくなったことが挙げられます。 そういうわけで研究者とは随分つきあい、行政官とまったく異なるカルチャーを持つ世界に触れたのは新鮮な経験でしたし、いろんな研究者の人脈ができたのは貴重な財産だと思っています。 なお、 S博士の指導を受けて、生まれてはじめてX線回折装置に挑戦しました。鉱物の同定用なのですが、習熟するまでいたらず、去らねばならなくなったのは残念でした。

私事になりますが、浪人していた長男は平成5年春ぶじ大学に入れました。教育学部のなんと地学科です。地学に興味も関心もないけれど、ここしか入れなかったそうです。 その夏には義姉が急死しました。お互い生まれ育った家族がこの十年ほどでどんどん消えていったのは寂しい限りです。ぼくの方はついに一人残った兄まで今年(平成8年5月)に他界してしまいました。

14、異国にて

そのあとがハワイ(東西センター)ということになります。辛かったけれど楽しかったここでの半単身赴任生活については「月刊コア」で克明に報告していますので省略します。ただ、なぜ英語も話せずいやがるぼくをむりやりハワイへ送ったかだけを補足しておきますと、平成6年はじめにはすでに関学行きが内定していたのですが、ぼくの最終ポストとして予定していた所沢が空かなかったことによる人事上の都合による緊急避難ということと、さらに東西センター客員研究員ということでハクを付けてやるとともに少しぐらいは英語を話せるような機会を与えてやろうということだと思います。

15、断末魔の役人

さて、平成7年4月、ハワイ暮らしを終え帰国。最終ポストである所沢の環境研修センター所長に就きました。ここでの生活はほんとうに優雅なもので、十時出勤、五時退庁で、広い所長室でのんびりと好きなことをしていればいい夢のような毎日で、ノルマは30ほどある研修コースの各開講日の開講訓話と記念写真、懇親会それに閉講日の修了証書授与と閉講訓話。それに鄭重にもてなす必要のある講師との昼の会食だけですから、税金ドロボーといわれても仕方がないような毎日でした。この間に大学に行くに備えての資料収集整理だとか英語・パソコンの練習をすればよかったのでしょうが、そんな気になれず、ワープロで鉱物採集紀行などの駄文書きばかりやってました(いまもそうですが)。 状況が変わったのが秋以降です。またもや補正予算が天から降ってわいたように付き、一方実務を取り仕切っていた次長にあたる研修企画官が入院してしまい、陣頭指揮をとらざるをえなくなったことです。それにひまな時期に考えついたいくつかの研修センターの新機軸のあるものも実現の運びとなり、まあまあの忙しさのなか、役人生活を去ることになりました。 次男もエスカレーターで長男と同じ都内の大学に行くことが決まりましたから、子どもたちは下宿生活ということで、役人をリタイアするとともに家族は二つに分裂することになりました。そして3月30日、女房と三田にやってきました。

このようにして振り返ってみればみるほど、さまざまなハプニングの連続でしたが、結果的には非常なラッキーな役人生活を送れたと思っていますし、それもその都度ぼくを支えてくれるまわりの人々が出現してくれたおかげと深く感謝しています。 ありがとうございました。